自由人の勘違い | 秋山のブログ

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フリードマンの「資本主義と自由」は詭弁のオンパレードである。どうしてそれが間違っているか、スティグリッツ教授を始め多くの人が既に相当指摘しており、そのほとんどが妥当であるが、今もって騙されている人が少なくないのも事実である。

その中で、フリードマンの間違いの根幹をなすものがこれである。
P46
『双方が十分な情報を得たうえで自発的に行う限り、経済取引はどちらにも利益をもたらす』

これはちょっと考えただけでは、至極妥当に思える内容である。はてさてどこが詭弁なのだろうか。

現実には、双方が十分な情報を得ること自体、稀であるということ。幸運が重なり、十分な情報を得ることができたとしても、それを正しく判断することはそう簡単ではないことだ。

例を出すことは極めて容易だ。
判事は、文系の人間の中では知的に最も高い能力を持つ人間である。しかし、医療裁判において意見の分かれた意見書をほとんど正当に評価できない。理解するために、何万ページにわたる基礎的な医学文書で学習し、文書の内容と現実のニュアンスのギャップを埋めるために実習も必要になるだろう。そこまでやれば何とかなりそうだが、現実的にはそれを実行する物理的余裕はないだろう。

医学に限らず人間の能力は極めて限定的であるため、日々の判断のほとんどは、適当なのだ。だから経済取引が利益になるとは限らない。

フリードマンが推奨する自由人の、極力自由に考えて行動することができるようにすべきであるという考えには、人間の能力に関する過信がもとにある。人に行動を制限されるのが嫌だから、法律等のルールを決めておいてそれに従うようにすればいいという彼の考えは、ルールの大雑把さ、不完全さも、それを読んで判断する人間の能力の低さも、全く考慮されていない。免許不要という彼の主張も、消費者の判断力のあり得ないほどの過大評価だ(日本の健康食品事情や、日本が麻疹の輸出大国になっていることなどをみても明らかだろう)。

フリードマンが推奨する自由は素晴らしい理想ではあるが、現時点では何光年も遠くにある星のようなものだろう。インターネットはそこに至るための革新的な武器であるが、まだまだ遥かに及ばない(情報の問題に気付きながらも、それを過小評価する人間は、これで達成できると誤解する)。

知識の質や量が向上すれば、より自由を謳歌できる環境が整う。人類のカタツムリのような(経済学のように真逆に何十年も逆走するような例もある)歩みは、自由の拡大と無縁ではないだろう。市場に若しくは自然に任せればとか、国家が余計なことをしなければ、環境が整うわけではない。自由という理想に向けて、人は正しく学んでいかなければならい。そのためには現状の把握は必須で、自由人の過大評価はそれを阻害するものに他ならないであろう。