こんにちは。
平成最後の記事となります。
「令和」という時代に、明日の0時00分からなって、何かが変わるわけでもなく、朝起きればいつもと変わらない朝が来ることをわかっているにもかかわらず不思議なものです。
元号が変わるというだけで、何か変わる感というものがあります。
でも時代の区切りにいま立っているというのは、なかなかできることではありませんよね。
しかもあらかじめ分かっている時代の区切りというのは、本当にレアなことであると思います。
100年後の歴史の教科書で語れられる出来事のまさにその瞬間に立っているわけです。
未来で平成という時代をどのように語られるのかは楽しみなことです。
残念ながらその時代に生まれ育った、リアルタイムのプレイヤーには時代を総括することは困難です。
何よりバイアスがかかっていますからね。
昔、あるドラマでこんなセリフがありました。
「我々の仕事は歴史を正しい方向に持っていくことだ。」
今を生きている人間は常に歴史という法廷に立っているという趣旨の発言でした。
大げさかもしれませんが、我々の行動の一つ一つが歴史を作って、未来にその善悪を裁かれるわけです。
そういう意味では常に歴史の法廷に立っているわけです。
この「未来からの視点」というのは、一つ行動指針には面白い視点であるなと思います。
どんな社会問題においても、「これは未来人がみたらどうなるか?」という視点です。
しかし一方で「未来のことよりも今を生きているものが優先されるべきである」という考え方もあります。
それはそうなんですよね。
例えば原発の核廃棄物の問題ではこんな議論ができます。
核廃棄物は無害化されるまで約1000年の時間がかかると聞いたことがあります。
それゆえ埋め立てるにも、1000年間その土地には危険を知らせなくていけません。
1000年後へのメッセージ。
これが果たして可能であるのか。
それを可能ではないという立場で原発の反対意見を言うこともできます。
一方でこんな見方もありますよね。
今から1000年前、つまり1020年ごろ、時は平安時代です。
当時の彼らは1000年後の我々に何かメッセージを残してきたか?
結局は人間の歴史はその時代に生きている人たちのものである、ともいえます。
時代が変われば、時間が経てばまた問題は解消され、そしてまた新しい問題が生まれて来る。
その繰り返しが時代なのだ、とも言えます。
確かに未来の話をするときに、今起きている問題をテクノロジーによって解決されている姿はよく語られます。
でも一方で忘れてはいけないのは、常に問題はある、と言うことです。
テクノロジーによってまた新しい問題は生まれているとゼロサム的視点は忘れてはいけないと思います。
今までは未来からの視点でしたが、一方で「過去からの視点」もあります。
約1ヶ月前に鹿児島の知覧に行ってきました。
特攻隊の隊員は「きっと日本は良くなっているよな」と信じてその任務を遂行しました。
こうした過去の犠牲を踏まえることも、新しい時代の行動指針に重要なことです。
例えば、憲法でしょうか。
法学的に憲法の役割とは、政府を縛ることです。
なぜなら政府はときに暴走するからです。
やはり人間は誤りを犯します。
人間が作る政府も同じことです。
だから憲法であらかじめ縛っておくわけです。
いわばブレーキ装置ですよね。
憲法には一種の人間の失敗の歴史と教訓が書いているわけです。
なので変更するには強い要件があるわけです。
人間は失敗すると言う人間観を踏まえると、過去からの積み重ね、教訓、要するに歴史からみると言う視点も重要です。
ただこちらも一方で「いつまでも過去にこだわっては、変化の激しい現代に対応できない」という考え方もあります。
確かに今は変化の激しい時代です。
それに対応していない過去の教訓もあるのかもしれないです。
しかしどんなに変化をするとは行っても、「人間は間違いをする」と言う本質はあまり変わらないと思っています。
だから「変わるべきことは変わる。変えないべきことは変えない。」という精査する冷静な保守精神が重要ではないかと思っています。これがなかなか難しいわけですが。
さて、新しい時代の幕開けです。
いづれにしても、過去を背負って、未来に裁かれる気概を持って、新しい時代でも生きていこうということが言いたかったわけです。
とりあえず平成の時代で出会った皆様、大変お世話になりました。
次の「令和」でも引き続きよろしくお願いいたします。
それではまた、次の時代で。
God bless you.