「真理探究中です。」 -3ページ目

「真理探究中です。」

嗜好品のようなブログを目指します

こんにちは。

平成最後の記事となります。

 

「令和」という時代に、明日の0時00分からなって、何かが変わるわけでもなく、朝起きればいつもと変わらない朝が来ることをわかっているにもかかわらず不思議なものです。

元号が変わるというだけで、何か変わる感というものがあります。

 

でも時代の区切りにいま立っているというのは、なかなかできることではありませんよね。

しかもあらかじめ分かっている時代の区切りというのは、本当にレアなことであると思います。

 

100年後の歴史の教科書で語れられる出来事のまさにその瞬間に立っているわけです。

未来で平成という時代をどのように語られるのかは楽しみなことです。

残念ながらその時代に生まれ育った、リアルタイムのプレイヤーには時代を総括することは困難です。

何よりバイアスがかかっていますからね。

 

昔、あるドラマでこんなセリフがありました。

 

「我々の仕事は歴史を正しい方向に持っていくことだ。」

 

今を生きている人間は常に歴史という法廷に立っているという趣旨の発言でした。

 

大げさかもしれませんが、我々の行動の一つ一つが歴史を作って、未来にその善悪を裁かれるわけです。

そういう意味では常に歴史の法廷に立っているわけです。

 

この「未来からの視点」というのは、一つ行動指針には面白い視点であるなと思います。

どんな社会問題においても、「これは未来人がみたらどうなるか?」という視点です。

 

しかし一方で「未来のことよりも今を生きているものが優先されるべきである」という考え方もあります。

それはそうなんですよね。

 

例えば原発の核廃棄物の問題ではこんな議論ができます。

 

核廃棄物は無害化されるまで約1000年の時間がかかると聞いたことがあります。

それゆえ埋め立てるにも、1000年間その土地には危険を知らせなくていけません。

1000年後へのメッセージ。

 

これが果たして可能であるのか。

 

それを可能ではないという立場で原発の反対意見を言うこともできます。

 

一方でこんな見方もありますよね。

 

今から1000年前、つまり1020年ごろ、時は平安時代です。

当時の彼らは1000年後の我々に何かメッセージを残してきたか?

結局は人間の歴史はその時代に生きている人たちのものである、ともいえます。

 

時代が変われば、時間が経てばまた問題は解消され、そしてまた新しい問題が生まれて来る。

その繰り返しが時代なのだ、とも言えます。

 

確かに未来の話をするときに、今起きている問題をテクノロジーによって解決されている姿はよく語られます。

でも一方で忘れてはいけないのは、常に問題はある、と言うことです。

テクノロジーによってまた新しい問題は生まれているとゼロサム的視点は忘れてはいけないと思います。

 

今までは未来からの視点でしたが、一方で「過去からの視点」もあります。

約1ヶ月前に鹿児島の知覧に行ってきました。

特攻隊の隊員は「きっと日本は良くなっているよな」と信じてその任務を遂行しました。

 

こうした過去の犠牲を踏まえることも、新しい時代の行動指針に重要なことです。

例えば、憲法でしょうか。

法学的に憲法の役割とは、政府を縛ることです。

なぜなら政府はときに暴走するからです。

 

やはり人間は誤りを犯します。

人間が作る政府も同じことです。

だから憲法であらかじめ縛っておくわけです。

いわばブレーキ装置ですよね。

 

憲法には一種の人間の失敗の歴史と教訓が書いているわけです。

なので変更するには強い要件があるわけです。

 

人間は失敗すると言う人間観を踏まえると、過去からの積み重ね、教訓、要するに歴史からみると言う視点も重要です。

 

ただこちらも一方で「いつまでも過去にこだわっては、変化の激しい現代に対応できない」という考え方もあります。

 

確かに今は変化の激しい時代です。

それに対応していない過去の教訓もあるのかもしれないです。

 

しかしどんなに変化をするとは行っても、「人間は間違いをする」と言う本質はあまり変わらないと思っています。

 

だから「変わるべきことは変わる。変えないべきことは変えない。」という精査する冷静な保守精神が重要ではないかと思っています。これがなかなか難しいわけですが。

 

さて、新しい時代の幕開けです。

いづれにしても、過去を背負って、未来に裁かれる気概を持って、新しい時代でも生きていこうということが言いたかったわけです。

 

とりあえず平成の時代で出会った皆様、大変お世話になりました。

次の「令和」でも引き続きよろしくお願いいたします。

 

それではまた、次の時代で。

 

God bless you.

今年は積極的自由追求の年に。

平成31年1月6日付けの上記の記事で、今年の活動方針・目標を掲げておりましたので、中間報告いたします。
 
1つ目にあげていた「自然分野」の取り組み方針であった、「星空検定」ですが、昨日郵送で合格通知をいただきました!
 
3月下旬に試験がありましたので、3月中の頭の中は星座とギリシャ神話のことばかり考えておりました。
試験直前には胃腸炎になったりで、色々ありましたが無事に目標達成をすることができてよかったです。
 
さてしかし問題がありまして、目標という「敵」を失う喪失感に悩まされた4月でした。
もちろん次は、「西洋アンティーク鑑定検定」を実施方針に基づいて受験する予定です。
ただしまだ出願期間を迎えておらず、本当はダメですが出願をしていないとやる気が出てこない状態に陥っております(笑)
 
これは私の本能なのでしょうか。
「獲得本能」、とにかく手に入れたいものがあるとエネルギーが湧くのですが、手に入れたいものがないと全然エネルギーが湧いてこないわけです。
 
ある意味では平和な状態を平和に過ごすことができない、というのは問題なんですよね。
常に闘争を求めているというのは。
 
結局のところ、闘争を求めている相談した結果、先週にやっくんよりTOEIC受験の共同戦線の申し込みがありました。
私も何度か英語を勉強しようとする時期が定期的にくるのですが、最後は「まあ、いま使わないし。」で省エネモードのスイッチが入って手を休めてしまいます。
 
でも今回は共同戦線。
もちろんやっくんは必要に駆られてTOEICを受けるわけですが、要するに私にとってTOEICはやっくんが敵になるわけですね。
いかに相手よりも高い得点を取るのか。
 
TOEICは英語力獲得が目的であると言われておりますが、それは理由ではありません。
とにかく闘争を求めているわけです。
 
4月は敵のいない空っぽな時間を過ごしてきましたが、ここからまた闘争が始まります。
敵はTOEICと西洋アンティーク検定。
 
検定試験の目的を闘争欲を満たすためというと、本来の目的から離れていると言われますが、人類は闘争(戦争)の代替手段として、スポーツを生んだと思います。
現代ではゲームだって一種の戦争の代替手段であると思います。
 
本質的に人類は闘争していたいわけです。。
自分はスポーツもゲームも興味外の分野ですが、きっと自分の闘争欲は検定試験で代替しているのかもしれません。
 
そろそろ10連休を目前に、何をしようかと本格的に考えてみた結果、「闘争する10連休」にしようと思います。
なんだか休むのか闘うのかという言語矛盾ですね笑
 
とりあえず4月もあと1週間。
頑張りましょう。
それでは、また。
 
God bless you.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

本日は久しぶりに舞台を観てきました。

観たものは、美輪明宏主演の「毛皮のマリー」です。

寺山修司先生の戯曲で有名な作品です。

 

舞台の感想は、とにかく言葉が良かったな。

「あんたは、どうして女に
変装したりするんだね?」
「それはあんたが刺青を

してるのと同じことよ。
男であるだけじゃあきたらず、
警察官を演じたり、
船乗りを演じたり、
思想家を演じたり、
フットボール選手を演じたり
する人がいっぱいいるのに、
おかしいじゃありませんか。
女を演じるのだけを、
好奇の目で見るなんて」

「人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの」

なんとも寺山修司先生の思想が垣間見える台詞であるな、って思いました。

また寺山先生の性に対するアナーキーな思想もいいですよね。

まあこればっかりは受け入れるかどうかは人次第ですが。

 

一緒に見に行ったM氏との会談では、こんなことが話題になりました。

 

「18歳以降に自分に影響を与えた作品は何か?」

 

小さい頃に見た作品については、意外とみんな話しますよね。

それが自分の性格形成に影響与えたと、結構話します。

あと小さい頃の作品は、意外とみんな見ているから話しやすいとも言えます。

 

でも18歳以降って個性もあるし、社会現象になっていないけど自分にとっては大きく人生に刺さったっていう作品は意外とあるのではないか、という話になりました。

 

また幼少期はどうしても親や学校の話題についていこうと、観るものが制限されますが、大人になると自由を手にします。

そこでやはり人間って自分に足りないピースを埋めようとするのではないかとも思います。

 

そこで「人生は足りないピースを埋めようとするドラマ」という仮説が二人の中で出来上がりました。

 

私自身は、まず自分に影響を与えた作品として真面目に「政治的思考」という新書をあげました。

なぜならこの本に出会ったからこそ、いろんな視点で考える、物事は単純ではないってことを学んだからです。

それまでは意外と「これに決まっている」なんていう単純思考でしたし、大枠で語る傾向にありました。

 

話は逸れますが、例えばこんな人いました。

映画のグリーンブック見て、やっぱり人を属性で判断するのではなく、一人ひとりを見ていかないとね。

差別は良くないって言ってた人が、次の日の韓国人による殺人事件で、「あーまた韓国人かよ。」と。

 

「何を学んだ、この人」と思いました。笑

 

でもやっぱり大枠で語る方がシンプルで、わかりやすいんですよね。

 

「最近の若者は」とか「ゆとりは」とかもその一つです。

 

でもそれじゃあ物事は見えてこない、それを教えてもらいました。

 

あとは恥ずかしいけれども「サイコパス」というアニメで、哲学本がすごく引用されていて、その影響でパスカルやデカルト、あと寺山修司先生の本を読もうと思いました(笑)

 

当時は哲学という難しい言いまわしをすることがカッコいいと思い、読み始めました。

でもこれも大きくいまの自分で影響を与えたような気がします。

ここで寺山修司先生に出会えて、今日の自分がいます。

 

さてこう考えてみると、自分のピースで足りないものは「哲学」だったのだなって思いました(笑)

それを18歳以降に埋めようといま頑張っているわけです。

 

自分の人生がどんなドラマになるのか。

できるだけいい役を演じていきたいと思っています。

 

それでは、また。

 

God bless you.

 

 

 

 

社員教育について、私は3年間担当してきました。

その中で様々な論点も浮かび上がってきたので、記録しておこうと思います。

 

ある問題意識を持った先輩社員が、10年目までを対象に、組織としてどんな教育がして欲しいかというアンケートをとって、研修に関する提言書が私のところにきたことから始まります。

そこには、仕事の基礎・社内ルール・キャリアプランなど、様々教えてくれなかったという声がありました。

 

「これは組織で対応しなくてはいけないんだ。このアンケートには課題がある。」というのが論法でした。

 

どういう形でアンケートをしたのか、そもそも問いの仕方を見るなど、基礎資料となるアンケートを見たいのですが、とりあえずこんな声がある、課題があるから何とかしなくてはいけない、というわけです。

 

でも正直に私は思い、聞きました。

 

「仕事の基礎って何か?」

「社内ルールなどはここに書いてあるけど、わざわざ研修の場を設ける必要があるのか?」

「キャリアプランは相談する場が他にもあるが、既存システムで活用できないのか?」

 

もっと踏み込んで言いました。

 

「ここには教えてくれなかったとあるが、自分で聞くことはなぜできないのか?わからないことは調べるのが基本ではないのか?」

「これらは全て個人の意欲の問題であり、組織の問題ではないのではないか?」

 

要するに私は、「個人の意欲の問題と組織で教育する問題の切り分けが必要である」という立場です。

結局のところ、「どこまで個人の問題に組織で場を用意するのか」ということです。

 

こうした「場」を用意することは、時間も労力、人件費もかかります。

かつては積極的に取り組んできたものですが、時代背景や研修をする側、受ける側から負担の重いことから少しづつ無くしてきた経緯があります。

 

それは裏返しで言えば、「個人の意欲」次第ということになったわけです。

 

私はこの流れに賛成の立場です。

なんでも「場」を用意すること自体が学校の画一的な教育的発想であるし、お節介なことであると思っています。

社員一人ひとりは、課題は違うわけであるし、その課題に向けてどう解消するかは、周りの人に聞く、インターネット、本で調べて解消していくということが普通であると思っています。

 

むしろ大学教育を経てきたならば、大学で何を学ぶって、自分で課題を設定して、材料集めて、問題解決を図ることではないでしょうか。たまたまその材料が学問というだけであって、仕事も性質は変わらないと思っています。

 

それは個人に対する負担が重いのではないか。

そんな意見もありますが、しかたがない、個人競争の時代ですから、としか言えないです。

むしろ会社からのコミットを拒否してきた結果であるとしか思えません。

 

社員教育の論点というのは、教育そのものの論点でもあります。

 

「みんなで同じことを学ぶ必要があるのか?教えてもらう必要があるのか?」

 

私は個人の能力に負担があることも承知の上で、「個別化教育」そして「自主的に学ぶ」ことが必要であると思っています。

 

でもそれは社会問題でも同じような論点になります。

 

例えば「教育予算は増やすべき」という考え方は、「教育は社会にとって税金を使ってでも必要な投資である」と考える人が多数ならば、叶うことではあるともいますが、一方で教育とは家族や個人の努力であり、社会としてバックアップすることは最低限で良い、というのが多数であれば教育予算は増えることはないと思います。

 

思想的には、新自由主義のように教育や福祉などを市場化するべきという考え方、日本的保守主義のように家族や地域でやるべきという考え方と社会でやるべきという税金をつぎ込むという社会主義思想の対立という構図です。

 

社員教育の話に戻せば、私はこの社会思想の文脈で言えば「新自由主義・日本的保守主義」のように「個人」の問題に落とし込み、先輩たちは「組織の問題である」という「社会主義」の立場な訳です。

 

どちらが正しいのかはわかりません。

信念の問題です。

 

ここからはそれなりの人の判断の世界になるわけですから、どうなるのか。

とりあえず「社員教育」問題を取り扱う人も、同じような問題を抱えていたら、一つ論点としてきっとあがるかもしれないので検討しておいた方が良いかもしれないです。

 

また社会問題を考える視点でも、「これは社会の問題?それとも個人の問題?」という切り分けが必要です。

社会の問題ならば、みんなで負担をすることを許容するか、個人の問題ならば個人への要求値は高く、落ちこぼれが出ることを許容するか、ということです。

 

人それぞれ信念・哲学が違うのは面白いものです。

 

それではまた。

 

God bless you.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんばんは。

本当に久しぶりの更新になってしまいました。

 

書くことは色々ありますが、このキーワードに絞って記録したいと思っています。

キーワードは「一所懸命」です。

 

歴史の授業では、鎌倉時代で扱う言葉です。

もともと今使っている「一生懸命」のベースとなる言葉です。

武士が与えられた領土を懸命に守る、という言葉でした。

 

3月末に定年退職をした方が、40年を振り返れば「一所懸命」であったと語っていました。

サラリーマンは何回も部署が変わっていきます。

そして当然に希望をしていないことをすることになります。

 

でも40年サラリーマンとして闘ってきた人は言います。

それでもそこで懸命に働いたことで、いろんな仕事を知ることができたし、いろんな人にも出会えた。

特に人との出会いというのは不思議なもので、公私ともに親しくしてもらった人もいたし、そういう人との繋がりでまた新しい仕事をすることもできたとのことでした。

 

希望をしていない仕事をやることについて、組織人としては当然の責務ではありますが、でも割り切れないものあるのではないか。

いろんな考え方があると思います。

そういう事態になるのは、やはり断ることができない個人の弱さがあるからであると。

だからこそ、組織人であっても断ることのできる能力開発が必要であると。

 

私はその考え方も共感できます。

 

最近は課題図書としてニーチェの本を苦しい思いで読みきりました。

ニーチェによれば、「否(ナイン)」ということできるのが「超人」であり、既存の価値観を失った世の中で生きる人間の理想であるとしています。

 

そういう意味では、しっかり否定できる人間になるために、能力開発は必要であると思います。

 

ただしこういう人もいます。

希望をしていない業務なので、モチベーションが上がりません、やりたくありません。

実際に新人でこのセリフを言う人がいましたが、正直に告白すると、「ここでこんな業務ができないようでは、希望する業務もできるわけがない。なぜなら経験のない人間が思い描く仕事はみんなやりたいものだし、輝かしい仕事にはものすごい泥臭い仕事が裏には必ずあるからです。」このように思っています。

 

「やりたいこと」を語るのは大いに素晴らしいことですが、私は思います。

「まずはできることをやっていこう」ということです。

ここからは楽観論ですが、「できることをやっていれば、また道が開けるさ。」とも思っています。

 

鹿児島でのやっくんとの議論を思い出します。

「私が人生を語るのではなく、人生が私に語りかけている」という実存主義の観点に立てば、「一所懸命」が重要ではないか、と思うわけです。

 

40年闘ってきたサラリーマンを見て、彼は何も望んだ道を歩んできたわけではありません。

と言うよりそもそも四十年後の自分が何をしているか、という設計通りにできるものでしょうか。

人生も世の中も予測不可能なことばかりです。

 

「私が」と言う私を中心に添えた思考法よりも、「私に」というベクトルの私中心の思考法に転換をご提案したいと思うわけです。

 

繰り返しで恐縮ですが、従ってキーワードは「一所懸命」です。

今あるその場所でまずは頑張ってみる。

そうすればきっと何か見えてくる。

 

見えて来ればまたきっと人生が私に何か語りかけてくる時に選択がある。

 

自らゴリゴリ突破して選択する人生ことも良いですが、ここでは運命に従ってその一所を懸命にやってみる。

だっていちいち運命を切り開いて選択するって疲れますもんね。

 

「一生懸命」だと疲れちゃいますもんね。

だって一生だもの。

省エネ人生としては「一所懸命」くらいがちょーど良いです。

 

要するに私は省エネライフを提唱したいわけです。

一所懸命という言葉の情熱さに隠れて私は省エネをご提案します。

 

周りが少しづつ環境変化をする四年目の春に、「一所懸命省エネプラン」。

 

ようやく暖かくなってまいりました。

それでは、また。

 

God bless you.