ジャーナリスト藤原亮司のブログ
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ガザのサミール、その子どものハムザたちきょうだい

ガザのサミールとは2002年2月からの付き合いになる。その当時彼は30歳で、結婚して間もなく、妻のおなかの中には第一子がいた。のちのハムザである。

私が泊まっていた安ホテルで働いていたが、当時から仕事が極めて少ないガザでは毎日働くことができず、週に2日か3日の勤務だった。第二次インティファーダ(イスラエルの占領に対する民衆蜂起)が始まっていたガザは封鎖が始まっており、イスラエルにも海外にも出ていくことはほぼ不可能だった。

 

彼が子どもの頃はガザにもイスラエル人が訪れることがあり、ビーチで海水浴をし、物価の安いガザで買い物をして帰った。サミールの父親はそんなユダヤ人と親しくなり、よく家に招いてお茶や食事を共にしたという。

サミールはそんな自分たちとは違うユダヤ人の姿を見て育った。その姿からガザの外にある文化や習慣に興味を持った。

 

しかし、第一次インティファーダ(1987年12月~1993年9月)が始まり、イスラエル軍部隊がガザの中を闊歩するようになる。多くのガザの人が拘束されたり、殺されたりした。それを見た少年時代のサミールは、他の子どもたちと同じようにイスラエル軍の車両に投石をした。

ユダヤ人が憎かったのではない。攻撃をし、人々を拘束するイスラエル軍に抵抗を示しただけだ。子どもの頃からユダヤ人と生身の交流があった彼は、いまだにユダヤ人そのものに憎しみや偏見はない。むしろ、ユダヤ人たちの賢さに敬意を持っているという言葉を何度も聞いたことがある。中には、皮肉で言ったときもあっただろうが。

 

第一次インティファーダが終わった後、サミールは一度だけエジプトに行ったことがある。

不自由なガザを出て、子どもの頃から憧れていた外国で商売がしたい。自分にはどんな可能性や能力があるのかを知りたい。そう思って、まずは1週間ほどカイロに下見に行った。そして、ガザに戻るため国境のラファ検問所の入国検査で、サミールはイスラエルに拘束された。子どもの頃、イスラエル軍に投石したという理由で。それから、1年4カ月間、イスラエルの刑務所に服役させられた。

 

しかし、へこたれないサミールは、ただうなだれて刑務所にいたわけではなかった。今は流暢に話す英語もヘブライ語も、そのときに看守とのやり取りで身につけた。耳学問なので、読み書きはできない。

イスラエルに捕まった経歴が残るサミールは、もう海外に出ることは許されない。せめていつかガザで自分の店を持ちたいと思いながら、金を工面する生活をしていた。

 

ガザにはそもそも仕事がない。海外に出稼ぎに行っている家族もいないサミールは、そこからの援助もない。どうやって無いところから金をかき集めてきたのか分からないが、私が知る限り彼は3度カフェを開業させたが、2度イスラエル軍の侵攻で破壊された。3度目の店も、2014年の侵攻で閉めた。

そのあとは小さな食料品店を開業させたはずだが、当然この侵攻でもう店はない。ほんとについてないやつである。

 

しかし、それでも彼の口から悲観は聞いたことがない。どんなに理不尽な目に遭っても、ようやく手に入れた自分の店を破壊されても、自虐とともに笑い飛ばした。「まあ、これがガザというもんだ」と。彼はハマスにもファタハにもイスラエルにも、「結局、どれも自分たちの体制を守ることしか考えてない」というスタンスで、そんな社会で生きる自分自身をも常に俯瞰して見て生きてきた。

そして、そんな社会であっても、自分自身の力で自立して生きようとしてきた。

 

妻のヤスミーンはわりと厳格なムスリマのようだ。長男のハムザは大学4年の10月、卒業まであと少しというところで大学そのものが壊されて消えた。私がサミールの家に行くと、いつも静かに私たちの話の邪魔をしないように、しかし熱心に耳を傾けていた。

長女のシャイマはよく気が付く、いかにもきょうだい思いの優しいお姉さんだった。今は結婚したそうだ。次男のアナスも穏やかで頭がよく、年齢よりもずっと大人だった。次女のサラは当時まだ3歳だったが、おてんばでよく喋る明るい子どもだった。たった3歳でも、この子は自由なところが一番サミールのそんな部分と似ている、と思った。

他にも、シャヘッド、アスマ。それと、私の会ったことがない一番下の子がもう1人いる。

 

ハムザが高校に入るとき、スマホを買ってあげた。そのかわり、いつかガザを出て世界に行けるようにしっかり英語を勉強しろと、説教じみた老婆心も言った。外国で自分の能力を試す夢を諦めるしかなかった父親とは違う、パレスチナ人の生き方がいつかできるように。

今回の侵攻が始まって、電話で初めてハムザと話した。最後に会ったのは12歳のときだから、サミールの通訳なしで話すのは当然初めてだ。ハムザは立派な英語を話した。野太い声になっていたハムザと英語で直接話をしていることが、とても感慨深かった。

いま、彼ら家族はガザの家を破壊され、避難民として過ごしている。「避難」といっても、ガザには安全なところなどどこにもない。サミールは首に砲弾の破片が刺さったまま手術ができず、次男のアナスは左目を負傷し視力を失った。

彼らを「ただ死ぬ順番が回ってくるのを待つ」状態にはさせたくないが、何もできない。
以下のURLは、ハムザがやっている、ガザを脱出するためのクラウドファウンディングです。
もしよろしければ、僅かな支援をお願いします。

 


 

映画「関心領域」鑑賞、繰り返される「アウシュビッツ」

映画「関心領域」鑑賞。
2023年5月にカンヌ映画祭で公開された米・ポーランド合作。
アウシュビッツ強制収容所の所長、ルドルフ・ヘスとその一家を描いた作品。ヘスはナチス親衛隊中佐であり、アウシュビッツの建設からユダヤ人ら大量虐殺に直接関わる。1947年、その罪で絞首刑にされた。

劇中、収容所の内部は一切描かれない。そこに隣接するヘスの豪華で美しい庭、周囲の森や川などの豊かな自然の中での一家の暮らしだけが、淡々と描かれている。
平穏で幸せな暮らし。しかし、映像のどこかには微かに銃声、遠くの叫び声、呻きのような音が聞こえ、収容所の煙や炎が映り込む。

無邪気に見える子供たちの行動も、どこか精神が壊れかけているかのような仕草が目立つ。映画の途中からこの家にやってきたヘスの妻の母親も、初めはこの家を気に入っていたにも関わらず、ある日耐えられなくなり姿を消す。

この母親はかつて、金持ちのユダヤ人宅の家政婦として働いていたという短いひと言が劇中には織り込まれており、ユダヤ人を肌身に知る母親だけが、この環境の異常さに気づく。

この映画のカンヌでの上映から約5カ月後の2023年10月7日、世界は今もまだ「アウシュビッツ」が世の中に存在するのだということを、改めて思い知ることになる。
そして、その「アウシュビッツ」の塀の外にいた人たちと、塀の中の人たちの関心領域がまるで逆転しながら、繰り返されていることに。
その現実にもはや当事者となった人たちは、気づく機会さえごく少ない。

ガザのアベッドとファティマ夫妻

2002年のガザでは、もうひとりとても親しくなった人がいた。
泊まっていたアダムホテルのウェイター、アベッド・マンスールだ。
彼もサミールと同じように週に2日ぐらいしか働けないが、仕事に出てきた日には終わってからも私が取材から帰ってくるのを待っていてくれ、何かと話した。

彼はまだガザが封鎖されていなくて海外に出られたころ、ウクライナの医学校に留学した。医者になろうと思ったのだという。
しかし彼の実家は学費の援助を続けられず、2年ほどで彼の留学は打ち切られ、ガザの安ホテルでようやく見つけたのがウェイターの仕事だった。
私より3歳ほど年下の彼は、当時29歳。アラブ人にしては遅い結婚をしたばかりだった。
私がガザを出て帰ると言うと、「一度わたしの妻に会ってくれ」と、家に招かれた。

家を訪ねると、彼ら夫婦が使っている部屋に通された。ガザの人たちは土地がないため、一棟の家を上に建て増しして行って、兄弟などが一緒に暮らしている。
「今日は兄弟も父親もいないから」と、アベッドと妻のファティマの三人で話した。
ガザから一歩も出たことがないファティマは、ロシア語を勉強したアベッドが話す英語よりもずっと上手な英語を話した。
当時は20代前半か半ばぐらいだったか。とても知的で穏やかで、美人で好奇心にあふれていた。本当に広い視野を持つ女性だった。私に日本や他の国のことをたくさん質問し、冗談も言い、たくさん笑った。イスラエルのことも聞いた。「ねえ、イスラエルの女性ってどんな感じ?いろんなとこに行けるの?好きなこと話せるの?」

私が答えを返すと、「いいなあ、イスラエルの女の人たち」と言った。

次にファティマに会ったのは、2009年の1月だった。
年末から年初にかけてのイスラエル軍侵攻で、家の一部を破壊されたアベッドの家を見舞ったとき。
そのとき、アベッドの親兄弟が総出で迎えてくれた。アラブの習慣では、解放的な家でない限り、男性の席に大人の女性は同席しない。そこにはアベッドの母親以外、女性はいなかった。

途中、中座して「家の被害の写真を撮ってくるから」と言って裏庭に出た。そのとき、3階のベランダから英語で呼びかけられた。ファティマだった。
「ハーイ、何年ぶりかでやっと会えた。フジ、ガザに来てくれてありがとう」
「何回かガザに来てるんだけど、会えなくてごめん」
「知ってる、アベッドに聞いてたから。今日は男の人たちがいるから会えなくて」
「仕事はしてる?」(女性が仕事をしていることがそもそも稀有)
「侵攻前まで役所で働いてたのだけど、今は自宅待機という名目の失業」、と笑った。

それから、また質問をしてきた。
「今、日本って何か変わった?最近はどの国に行ってるの?そこってどんなとこだった?」
ベランダの3階と裏庭で、部屋の中には聞こえないように声をひそめて話す。
そのとき、アベッドの兄が「フジワラ、そろそろ部屋に戻ってチャイ飲まないか?」と誘いに来た。それに応えているとき、上のほうで「カチャリ」と扉が閉まる音が聞こえた。
私が裏庭を立ち去るとき、「カチャリ」とまた小さな音が聞こえ、振り返るとファティマが手を振っていた。

2014年、ガザから出るとき、アベッドに連絡して出境の前日に会う約束をした。
「ファティマも連れて行きたいから、家じゃなくていいか?」と言うので、「当たり前だ、ファティマと3人でカフェで会おう」と場所を指定した。しかし、前日の夜にアベッドから連絡があり、「ごめん、フジ。明日いけない」と。
「なんで?」と問うと、「ファティマがインフルエンザに罹った」と。
「じゃあ二人で会うか?」と言うと「高熱の妻をほっとけない」と。
「アベッド、お前ほんとに妻のことが大好きだな」と、微笑んだ。

あんな人物なら、そりゃ大切にしたい。あんな人物が、ガザに閉じ込められずに、あるいはガザの習慣にとらわれずに生きることができたら、どんなによかっただろう。

もう、アベッドの家も消滅し、連絡は取りようがない。

どこかで、無事を祈るしかない。

 

ガザのサミール、そして息子のハムザ

ガザで暮らすハムザ一家のクラファン・寄付をしていただいた皆様、本当に感謝致します。大変厚かましいお願いであることを承知しております。

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“I hate to do this”

これはクラファンの告知にハムザ自身が書き込んだ冒頭の言葉です。誰かに寄付をお願いする自分自身への侮蔑です。


このクラファンを行なっているガザのハムザは、私の親しい友人であるサミールの息子で22歳の大学生だが、もう彼が通うべき大学はイスラエル軍に破壊されてない(全てのガザの大学は破壊された)。
サミールと出会ったのは2002年の始めのこと。彼はまだ26歳で、いつか自分の能力を試すために、海外に出て商売がしたいと言っていた。頭の回転のいい、それに自分の置かれた環境を自虐的、客観的に笑い飛ばせる、どこか達観したやつだった。私自身は、当時は32歳。

その頃、パレスチナとイスラエルは「第二次インティファーダ」の頃だった。ガザは封鎖されて、サミールはどこにも行けないし、仕事も週に2回か3回、ホテルのウェイターの仕事を数時間できるぐらいしかなかった。
それでも何とか才覚を生かして金を工面し、海外に出ることを夢見たけれど、許可は下りずに諦めた。そして、結婚してすぐに授かったのがハムザだった。私はハムザが母親のおなかの中にいるときに、サミールと知り合った。

それからガザに行くたびに、サミールと会い、話し、何度も取材を手伝ってもらった。家にも何度も行き、ハムザにも、そのあとにたくさん生まれたきょうだいたちにも会った。

ハムザは幼稚園児から小学生になり、高学年になると私とサミールの話の場にはいつもいた。こんなどうでもいい酒飲みな生活をしている私に彼は、「日本ってどんなとこ?」「アフガニスタン?」「ヨルダンは?」「エルサレムは?」「ヨーロッパは?」と聞く。ガザから一歩も出られない彼ら一家にとって、仕事で色々な外国に行く私を、恥ずかしいけれどハムザは憧れのように思ってくれた。
たまに、ガザに行っていないときにサミールに電話をすると、「子どもたちがフジは今どの国にいるんだ?と聞いてるぞ」と言った。「フジのことをしょっちゅう『どうしてるの』と聞いてくるぞ」と。

 

彼らガザの子どもたちにとって、私は彼らの生きている世界で唯一の部外者であり、異文化であり、外の世界とのつながりだった。サミールの子どもたちが、自分をそんな存在だと思ってくれることが、嬉しかった。

 

またいつでもガザに行ける、と思っていた。そこにはサミール一家がいるし、知っている町がある。いつでも、彼らと話すことができると。
しかし、2023年10月7日に、すべては変わった。もうどこにも、私が知っているガザの風景はない。

すぐにサミールに電話をかけた。そのときは繋がったが、サミールは言った。「これから、地獄が始まる」と。そしてその予言めいたことは、現実になった。いつもこいつは、当たってしまう予言めいたことを言う。

 

ずっと前から。ハムザもサミールも、他の子どもたちも、人の施しを受けずに、平和なときでも仕事がほとんどなく、生きることすら大変なガザで、自らの手で生活を維持してきた。しかし、この侵攻(「侵攻」などという生易しい言葉か!)家は破壊され、どこにも行くところがない。もはや他人からの寄付を貰うことを選択せざるを得ない。

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みなさまにいただいた寄付は、単にお金というだけではなく、世界に見捨てられたかのようなガザで、それでもどこかで自分たちを気にしてくれている誰かがいる、ということであり、それがこれからも彼らが生き延びようと思える力になると思います。

230万人近いガザの人たちが同様の苦難を科せられている中で、ひとつの家族だけを救おうとすることの欺瞞も承知しています。

重ねて、今回の不躾なお願いについて、お詫びとお礼を申し上げます。

ありがとうございます。引き続き、ご寄付を賜ることができれば幸甚です。https://twitter.com/Hamza_sameer1/status/1787548055396339833

 

 

大吉原展

かつてここで働いていたひとりの人、いまもここで働いている人、もうひとりはここで店長をしている人と、一時期親しく関わった。


島原など京都にルーツを持つ吉原・新吉原の歴史と、それが江戸文化のひとつのように華やいだ時期があった一方で、「豪華な女郎」に逆に貶められていった江戸期。

江戸文化の華やかさというのは、日本が独自性を発展させながらも、内に向かってのそれがやがて行き詰まるまでの花火みたいな華やか











さではないかと、思うことがある。


明治末の吉原炎上ぐらいまでの吉原には、その中で名を上げれば格を越えられるという、いびつではあるが、その中でしか生きざるを得なかった人たちの「文化」というものがあったのかもしれない。

しかし、大正から戦前戦後、昭和33年3月末の売春防止法の頃には、東向島をはじめとする三業地や色街にさえ、吉原の存在感は薄められた。


それでも、バブル期からバブル後のしばらくの間は、JR山手線の鶯谷駅には、ソープの客を待つ送迎のハイヤーや自社の高級車がたくさん並んでいた。

「吉原ブランド」が少しだけ、復活した時期でもある。しかし、それももはや古い話になって久しい。


いま吉原を歩くと、かつてソープだった建物の多くはマンションになり、今も営業をしている店舗も、昼間の明るいときは傷みが激しい。ここにかつての吉原の花柳をイメージするには、かなりの想像力がいる。


かつてここで働いていた友人は、「他に、どこで仕事ができる?できたとしても、結局しばらくしたらみんなにバカにされんのよ」と言った。「ここは、他に比べて『マシ』なのよ」と。

彼女はおしゃれで、他者にも気遣いする人で、話も楽しい。いろんな魅力がある。でも簡単な計算ができないのと、記憶をすることが極端に苦手だ。しかし、それ以外は「普通」に見えるので、彼女の抱えるしんどさは他者からは見えない。


だから、かつて働いていたアパレルでも、その後就いた製造業の仕事でも、「バカ」とか、「仕事なめてる」とか、「やる気ない」とか言われたそうだ。

そして、「吉原が楽」なんだと。

「だいたい普通」に暮らせている私には、彼女がその都度どんな思いで生きてきたのかは分からない。


最後に会った頃、彼女は40歳になった。「おばさんで吉原にいられなくなったら、川口とか錦糸町とか、それかどっかの地方行くよ」と話していたのは、もう10年近く前になる。

コロナ禍の頃、「こんな時期どうしてるんだろ」と思って覗いた彼女のSNSには、四国の劇場で踊っている姿があった。

そのSNSもいまは更新されていない。吉原に戻ったのか、それともどこかの地方にいるのか。別の暮らしを見つけたのか。


大吉原展はまだ始まっていない。「見てから言え」と自分に思うが、「あんなポップにしてくれるな」とも思う。ただ今もにそこで生きているかもしれない知り合いを思うと、少しモヤモヤするだけだ。


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