私が目を覚ますともう、ジヨンの姿は無かった。昨日まで当たり前のように隣にいた彼の温もりを思い出すと一気に寂しさが込み上げてきた。
たったの二日間だった。彼が片時も離れず側にいてくれて、たくさんの愛をくれたのは。なのにこの二日間で私は何て欲張りになってしまったのだろう。そんな事を考えながら私はむくりと上半身を起こして昨日泣いたせいで酷く腫れている瞼に手を置いた。
そのまま短く息を吐きベッドを離れると部屋に備え付けてある冷蔵庫の中から水を取り出し一気に喉の奥まで流し込んだ。乾いた身体が潤っていく。私は水を片手に持ったまま部屋を移動した。広い机の上に一枚の紙が置かれている。
そこには慣れない日本語でジヨンから私への置き手紙が書かれていた。
(先に出るね。車は用意してあるから好きなタイミングで帰っていいよ!帰る時はこの番号にかけて車を呼んで!日本語で大丈夫だから。それと…いつも愛してるよ…ジヨンより)
また、涙が出る。
私はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。どうして、こんなに泣いてしまうんだろう。
ジヨンの愛してるよの言葉が苦しい。
彼女にも囁いたのだろうか…
黒く、ねっとりとした靄が私の中に立ち込んでいく。
私はそんな考えを押し込めるように残っていたペットボトルの水を全て自分の身体の中に流し込んでいった。
それから暫く、ジヨンとはLINEや電話でしか話すことしかできなかった。
私も自分の仕事が忙しくなり、同じ日本にいるのになかなか会えない日々が続いていた。寂しい反面、少しほっとしている自分もいた。逢えない間も私の中の黒いシミは少しずつ、だけど確実に広がっていってジヨンを想う気持ちが苦しくなる一方だった。今、ジヨンに会ってもきっと上手く笑えない。こんな苦しさを誰かに聞いて欲しい、そんな考えだけで私は携帯の連絡先を開き電話をかけた。
「ヨボセヨ〜」
明るく元気のいい声が耳元で響く。
「あ、テソン?」
テソンは「あーこのみちゃん!」と日本語で答えると「どうしたの?」と尋ねてきた。
「また、わからない韓国語があった?」
答えない私にテソンは再び尋ねた。
私は「…違うよ」と答え今、近くにジヨンとかメンバーがいるかどうかを確認するとテソンは不思議そうな声を出して「いないよ」と答えた。
「明日の夜、テソン用事ある?」
テソンは「無いけど、どうしたの?」と心配そうに尋ねてきた。私は「聞いて欲しい事があるの」とテソンに告げると胸の奥から込み上げてくる感情と私の視界をぼやかす涙を零さないようにぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
そんな私に気づいたのか「大丈夫だよ…だから泣かないでね」と優しく囁いてくれた。
私は「ありがとう」と返すと「じゃあ明日」と言って電話を切った。
テソンとの電話を切るとその間にジヨンからのLINEが入っていた。
(明日、夜空いてない?)
自分の心臓が大きく脈打った。
私は暫く携帯の画面を見つめて返信を打った。
(明日は、仕事が遅くまでかかりそうなの)
私が返したと同時に既読の文字がついた。
それから少ししてジヨンは(そっか、ならしかたねぇな)と返してきた。
私は嘘をついた後ろめたさと心の黒い靄のせいでジヨンからのメッセージに返信する事ができなかった。
街の街頭がちらほらと灯り始めた頃、私はテソンのお勧めだという店の前にいた。この店で合ってるかとテソンから送られてきた画像と店の外観を照らし合わせるとどうやら合ってるみたいだった。テソンから誰かに見られたらまずいから先に店に入ってるねと連絡がきた。
私は一先ず店内に入り名前を告げると奥の個室に通された。
引き戸を開けて中に入るとテソンが笑顔で片手を上げていた。私はテソンの向かいに座りショルダータイプのバッグを横に置いて上着を脱いだ。
「今日は、ごめんね」
そう言うとテソンは顔の前でその大きな手を横に振って「全然いいよ」と笑顔で答えてくれた。そして、テソンは「先にオーダーしちゃいましょう」とメニュー表を手に取り「僕のお勧めでいい?」と尋ねた。私は笑顔で頷くとテソンも笑顔を返してくれた。
メンバーのしかもジヨンの彼女と、彼に内緒で二人きりで会っている、こんなの本当はテソンにとって気まずい筈なのにきっとテソンは優しいから電話口で泣き出しそうな声を出した私を放って置けなかったに違いない。
「ありがとう」
「ん?全然いいよ」
そう言ってテソンは目の前にある料理に箸をつけている。テソンは口に運んだ料理をゴクリと飲み込むと紙ナプキンで口元を拭きながらこちらに笑顔を向けた。
「で?聞いて欲しい事って?」
そう尋ねてきたテソンの声が思いの外、優しくて私は鼻の奥に熱いものが流れるのを感じた。私は勢いに任せて、自分の中の黒い物を吐き出した。悲しそうに笑うジヨンや彼女の名前の事、それと一緒に頬を伝う涙をもう、隠すこともなくテソンにぶつけた。
テソンは静かに私の話を聞いてくれた。
「…わかった。ちょっとごめんね」
そう言ってテソンは徐ろに携帯を取り出して誰かへ電話し始めた。
「あ、ジヨンヒョン?」
韓国語で話すテソンの言葉からジヨンって言葉だけ理解できた。
テソンの電話の先から聞き覚えのある少し荒げた声が私の耳に入ってきた。私の動きが止まる。指先が冷たくなっていくのがわかった。
テソンは電話を切って真っ直ぐと真剣な表情で私を見た。
「…なんで?」
私が「内緒にしてって言ったのに」と恨めしそうに尋ねるとテソンは私から瞳を逸らさずに静かに答えた。
「これは、二人で話をしなきゃダメだ。僕にぶつけるだけで本当に満足できるの?それでスッキリする?」
私を戒めるように厳しく言葉を発したテソンに私はゆっくりと首を横に振った。
「でしょ?話す相手は僕じゃないよ、ジヨンヒョンだよ。このみちゃんはヒョンのこと好きなんだよね?」
「好きだよ‼︎‼︎……だから、こんなに苦しいんじゃん…」
私はテソンの言葉に被せるように答えて机の上に肘をついて両手で自分の顔を覆った。
「うん、わかってるよ。だからこそジヨンヒョンにこのみちゃんの思いをぶつけてあげてよ」
そう言ってテソンは私の頭に手乗せて優しく撫でてくれた。
年下の男の子に何されてるんだろうと自分を情けなく思いながら、それでもテソンの温かくて大きな手に私は心から感謝した。
「ここだけの話」
そう言うテソンに視線を向けると唇の前に人差し指を当ててこちらに笑顔を向けている。
「ジヨンヒョン、このみちゃんにゾッコンだよ」
そう言ってひょうきんに片目をぎゅっと閉じてウインクをして見せた。
その可愛らしい表情に自然と笑みがこぼれた。
「ゾッコンって言葉どこで覚えたの?」
笑いながら私が尋ねると「内緒♫」と言ってまたウインクをして見せる。
私は笑った。久しぶりに声を出して笑った。
さっきまで流れていた涙もすっかり渇いていた。
その時、私の後ろの引き戸が勢い良く開いた。私はその音に驚きおずおずと後ろを振り返った。
そこにはサングラスを掛けてキャップを被り肩を上下に動かして荒々しく息をするジヨンが立っていた。ジヨンは無言のままズカズカと私に近づき腕を掴んで座っている私を立たせた。そして、横に置いていた上着を私に羽織らせバッグを拾い上げて自分の肩にかけた。
「…テソン、悪りぃな」
ジヨンがテソンに声をかけるとテソンは片手を上げて瞳を閉じながらゆっくりと頷いていた。
それを見たジヨンは私の腕を引いて部屋を出ようとした。私はテソンを見つめて「ごめんね!今日はありがとう!」と伝えるとテソンは胸の前でガッツポーズを作り、声を発さずに「ファイティン」と口を動かして笑顔で送り出してくれた。
私は無言で手を引くジヨンを見上げた。
だけどキャップを被りサングラスをして真っ直ぐと前を向いたままのジヨンの表情は読み取れなかった。
この強く握られた腕が痛い。
私はジヨンにかけられた上着の襟元を片手でぎゅっと握りこの腕に感じる痛みを静かに受け入れた。
if you 第14話 fin.