彼が帰国してから一カ月程が経った。
私はジヨンが帰国した日に届いたラインを見つめて大きく息を吐き呟いた。
「ごめんって、なんだったんだろう」
ジヨンからラインが届いて私はすぐに電話をかけたがもう飛行機に乗った後だったのか彼には繋がらなかった。
それから数時間が経ってジヨンから連絡がきた。私は「ごめんってどうしたの?」と尋ねると彼は笑って「何でもない」と答えた。
「ただの、このみロス」
そう言って笑うジヨンに私は何も言えなくなってしまった。
だって、彼の声は確かに笑っていたのに何だか泣いてるようにも聞こえたから。
ジヨンはたまに笑いながら、泣いている。
私にはそう感じる時がある。
だけど、私を安心させようと笑ってみせる彼の優しさを無下にはできなかった。
「私もジヨンロス始まりました」
そう言って、私も笑った。
心に一つの棘を残して。
その日は朝から仕事で疲れ果てていた。いつもの道を歩いて帰る。あと数分、歩けば家まで帰り着くのに私の体は重く、一歩踏み出すのが亀並みに遅くなっていた。それでも気力で体を前に前にと押し出す。
そして、いつもの場所で足を止めた。
ここを通る時はどんなに疲れていても笑顔になれる。
私が彼に傘を差し出した場所。
ジヨンとの初めての思い出の場所。
私は両手で口元を覆った。
先ほどまでの疲れも吹き飛び駆け出していた。
彼はいつものように目深に被ったキャップを少し上げて微笑み、両腕を広げていた。
私は迷わず彼の腕の中へ飛び込んだ。
彼の広い背中に腕をまわして力いっぱい抱きしめた。彼も私の腰に腕をまわしてグッと引き寄せてくれる。
私は彼の厚い胸に顔を埋めた。
彼の匂いだ。
私は彼の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
「ジヨン」
自然と彼の名を呼べば、ジヨンは私の首筋に顔を埋める。
ジヨンの唇が私の首筋にあたり、そこだけが異常に熱を帯びていくのがわかった。
「このみ、逢いたかったヨ」
耳許で聞こえる甘い声に私の体はビクリと跳ねた。
私は体を少し離して、ジヨンを見上げた。
「でも、どうして?」
ジヨンは私を見つめて答えた。
「明後日の次の日から、ファンミがあるカラ早く来た。オフもらえたカラ」
ジヨンはにっこりと笑って話を続けた。
「だから、準備シテ?」
私は思わず目を見開いた。
そんな私の事などお構い無しにジヨンは拙い日本語を次々と並べていった。
「とっても静かで、いいトコロで、温泉もあるんだって♫あ!それに今、人も少ないカラ大丈夫ダヨ…だから…」
私はジヨンの口を両手で押さえた。
ジヨンはまだ何かモゴモゴと言っていたがそんな事よりも先にこの話の見えない状況を解決しなくてはいけなかった。
「何?どういう事?準備って?」
私は矢継ぎ早に質問を投げかけた。
ジヨンは私の押さえている手を指差して退かしてくれなきゃ答えられないよ?といった風に首を傾げた。
「オフだから、このみも一緒に行くんダヨ。だから準備して」
「……………」
何となく話は解った。
幸いな事に仕事は明日、明後日お休みだった、それに寂しい事に特に予定もなくだけど今はそれでよかったと思った。
あれこれと考えているとジヨンが口を開いた。
「…俺と一緒に行くのイヤダ?」
悲しげに唇を尖らして俯くジヨン。
私はジヨンの両頬に両手を添えて答えた。
「嫌なわけ無いじゃない。ただ、急で少しビックリしただけ。嬉しいよ」
ジヨンはパッと顔を上げ先ほどの表情なんて嘘だったかのようにニヤリと悪戯っぽく笑った。
「よし!行こう♫」
そう言って私の手を取り歩き出した。
私が「どこに行くの?」と尋ねるとさも当たり前のように「車を待たせてるから」と言った。私は少し驚いたもののジヨンならあり得るかもと、半ば無理やり自分を納得させて、目の前に留まっていた黒塗りの高級車に乗り込んだ。
着替えを取りに家に寄ってもらいその時ジヨンには車で待っててと頼んだものの最もあっさり嫌だと断れてしまった。
部屋に入るとジヨンは私の部屋を一通り見て回って満足したのかソファに座り私が読みかけていた雑誌を手に取り開いていた。
ジヨンが私の部屋に居る。
その現実が嘘みたいで何だか胸がくすぐったくなるのを感じた。
私はジヨンの側に立ち「飲み物は?」と尋ねるとジヨンは「すぐに出るカラいらないよ」と優しく笑って断わり、また雑誌に視線を戻した。私は「わかった」と答えて準備に戻った。
だけど、部屋にジヨンがいるというだけでソワソワして一向に準備が捗らなかった。私はチラリとジヨンに視線を向ける。ジヨンはまだ雑誌に目を向け、こちらを見る様子などなかった。
私はその事が何だか少しだけ寂しくて荒々しく下着やTシャツをボスボスとバックの中に押し込んだ。
フローリングに座っりふてくされて作業をしていた私はグッと後ろに仰け反った。
「どうしたの?」
その甘い声が私の耳を刺激した。
ジヨンは私のお腹の前で自分の両手を繋ぎ私が逃げられないように強く引き寄せていた。私は手元のバックを見つめて「何でもないけど」と答えた。
「そんな風に入れたら服が可哀想ダヨ?」
「…下着とかTシャツだからいいんだし」
可愛くない言い方をしてしまった。
だって年甲斐もなく構ってもらえなくて寂しくていじけてるなんて、恥ずかし過ぎる。そんな事は口が裂けても言えなかった。
「俺ね、このみが不機嫌な時わかるんダヨ?」
そう言いながらジヨンは私の耳の後ろの辺りに唇を当ててクスリと笑った。彼の息が私の耳を掠める。私の体は思わずピクリと反応してしまう。
「だからね、俺このみの機嫌を治す方法も知ってるんだ」
私は恐らく恥ずかしさで、真っ赤になっているであろう顔を隠したくて俯いた。
ジヨンはそんな私の顎に指を優しく添えて「コッチ見て?」と懇願するように囁き私の顔を自分の方へと向けた。
ジヨンと私の視線が交わった。
自分でも恥ずかしさで瞳が潤んでるのがわかる。その事実が私の羞恥心をさらに煽った。
「…その目は、反則ダヨ」
そう言ってジヨンはゆっくり私に口付けた。最初は軽いものから、それは次第に深いものへの変わっていく。
私は息もできないくらいのキスの嵐に耐えられずジヨンの厚い胸を押した。
「……っ苦しいよ」
「このみが悪い」
ジヨンは熱の籠った瞳で私を真っ直ぐに見つめて、もう一度私の唇に自分のその柔らかな唇を重ねた。そして私の後頭部を手で抑え今度は逃げられないようにした。
彼のキスと彼の醸し出す香りが、私の思考を遠くへと追いやる。私は必死にその思考の影を掴み自分に引き戻す。
ジヨンの唇から自分の唇を引き離し、ジヨンを見つめた。
「…運転手さんが待ってるよ」
そう言うとジヨンはニヤリと笑ってまた私に顔を近づけた。
「待たせちゃおっ♫」
子供の様に無邪気に笑う彼を見て、私も思わず笑ってしまった。
ジヨンは「どうして、笑うの?」とわざとらしくいじけた様に頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。その様子も無性に愛らしくて私は目を細めて彼を見つめた。
ジヨンはそっぽを向いたままチラリとこちらに視線を向けた。
「ホラね、治った」
ジヨンは私に顔を向けて優しく微笑んだ。
「本当だ、治っちゃったね」
そう言って私たちは笑った。
ジヨンは「だから、今度はご褒美ネ」と言いながら私にキスの雨を降らせた。
私は彼の香りに酔いしれてこの甘い時間がずっと続いていく事を願った。
そして、遠退いていく自分の思考を手放してジヨンの甘い口付けに応えた。
if you 第8話 fin.