松尾大社は、現在の京都市西部を流れる桂川の西岸、嵐山に程近い松尾山麓に鎮座しており、神名帳(927)の山城国葛野郡に「松尾神社二座、並名神大、月次相嘗新嘗」と記される式内社で、戦前の社格は官幣大社、現代では神社本庁の別表神社である。
また、吉記(平安末期)に「平安京之百王不易之都也、東有二厳神一西仰二猛霊一、厳神之賀茂太神宮、猛霊者松尾霊社是也」とあり、松尾社は「西の猛霊」と称されて、「東の厳神」である賀茂社と共に王城鎮護の神として崇敬されました。
松尾大社
御祭神/大山咋神・市杵島姫命
現在の祭神は大山咋神と市杵島姫命の二柱。
本朝月令所載の「秦氏本系帳」によると、松尾社の創祀は大宝元年(701)とある。
泰氏本系帳云、正一位勲一等松尾大神御社者、筑紫胸形坐中部大神、戌辰年三月三日、天二下坐松埼日尾一、又日埼岑云。大宝元年、川邊腹男秦忌寸都理、自二日埼岑一更奉二請松尾一。又、田口腹女・秦忌寸知麻留女、始立二御阿礼平一。知麻留女之子秦忌寸都駕布、自二戌牛年一為レ祝、子孫相承、祈二祭大神一。自レ其以降、至二于元慶三年一、二百三十四年。
【本朝月令】惟宗公方(平安中期成立)「秦氏本系帳」より
秦氏本系帳によると、筑紫の宗像の中部大神が日埼岑(松埼日尾)に天降り坐して、大宝元年に秦忌寸都理が日埼岑(峯)から現社地に勧請したのが、現在の松尾社の起源とされる。
中部大神とは中都大神の誤記かと思われるが、中津姫神は宗像三女神の内、旧事紀に「瀛津嶋姫命者是所居二于遠瀛一者此田心姫命也。邊津嶋姫命者是所二居于海濱一者此瑞津嶋姬命也。中津嶋姫命者是所二居于中嶋一者此云杵嶋命也」とあるため、市杵島姫のことだとされている。
しかし、秦氏本系帳には大山咋神についての記載が無いため、松尾大神は中津姫神ということにならないだろうか。
次大山上咋神、亦名、山末之大主神。此神者、坐二近淡海國之日枝山一、亦坐二葛野之松尾一、用二鳴鏑一神者也。
【古事記】太安万侶(712)より
一方、大山咋神は、古事記に近江国の日枝山(日吉大社)並びに「葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ」と記されるが、鳴鏑とは鏑矢のことで、つまり大山咋神は「矢を用いる神」とする。
秦氏本系帳には、別雷神が秦氏の女から生まれたとする丹塗矢伝説を載せるが、賀茂社伝承では丹塗矢を「乙訓郡社坐火雷神」とするのに対し、秦氏本系帳では矢の神を「戸上矢者松尾大明神是也」としており、これは大山咋神の特長に符合する。
このことについて、本居宣長は「古事記伝」(1790)の中で「風土記には、彼矢は乙訓社坐とあれば、松尾に非るに似たれど、釋に引る秦氏の書には、松尾神とあるを合せて思へば、松尾乙訓共に、此矢の霊を祀れる社と聞ゆ」として、松尾社と乙訓社は同じ神を祀っているためだと述べている。
また、「公事根源」(1422)には「いまの丹塗の矢は、松尾大明神と後にあらわれ給ふにや」と記述がある事から、伴信友は「瀬見小河」(1821)に「其最初に神矢を乙訓郡に社を建立て安置奉り、別雷神をも配へて火雷神と称して祀りたりけるを、其後神矢を離ちて松尾に遷し安置まつり、又その後大宝元年、秦都理更に神殿を建て大山咋神の霊形として祀り始め、また此時胸形の中都神をも相殿に祭れるなり」としています。
続日本紀の延暦三年(784)十一月の条には「遣二近衛中将正四位上紀朝臣船守一、叙二賀茂上下二社従二位一。又遣二兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚一、叙二松尾乙訓二神従五位下一、以二遷都一也」とあり、松尾社は、長岡京遷都に際して加階された山城国を代表する大社であり、特に乙訓社と並んで叙されている事は、両社に何らかの因縁があるからかもしれない。
しかし、乙訓社と松尾社の神を同神としたり、乙訓社の御霊形(みたまがた=御神体)を松尾社に遷したとする記録や根拠となるものは実際には無い。
ところで、中津姫神が降臨した日埼岑とは、松尾山の山頂近くに存在する巨大な磐座とされています。
松尾社背後の山を「松尾山」と言い、または「分土山」とも称しますが、山城名勝志(1705)には「乾方分土山有二往昔降臨鎮座之岩一」とあるように、神蹟の磐座を有する神奈備山があることは、松尾社と上賀茂社はよく似ています。
この山は、山城名勝志に「社家説云、松尾山亀山神代には一山なりしを松尾明神大井川をさくり給ひしより二の山となれり、分土山といふも此意なるへし」とあるように、元は一つだった山が松尾山と亀山(天龍寺西にある現在の嵐山公園)の二つになったので、分土山とも呼ぶとされています。
なぜなら、山州名跡志(1711)に「神代系圖傳曰、遥古世丹波國皆湖也。其水赤、故云二丹波一、大山咋神決二其湖一、丹波水涸成レ土矣。以レ鋤爲二神體一此神者即松尾大神也」とあるように、太古の丹波国(亀岡盆地)は湖だったが、大山咋神が保津峡を開削し、大堰川(桂川上流)を通した伝説があるためです。
この松尾山は、山州名跡志に「松尾山、一名別雷山」とあり、別雷山は分土山が転訛した名称だと思うが、見方によっては別雷命が生まれた山であるとも解釈できる。
ちなみに松尾山は「松尾山古墳群」と称する古代の葬送の地であって、それらの中には磐座を見下ろすかのように山頂に存在する古墳まであり、これは松尾社の成立が祖霊信仰と無縁で無いことを意味している。
さて、秦氏本系帳には「秦忌寸知麻留女始立御阿礼平」とあるが、「御阿礼平」は、祭祀場として日埼岑を指しているという説もあるが、「御阿礼乎(を)」の誤記の可能性や、「御阿礼木を立てた」という解釈が成り立つのも否定できない
どちらにせよ、ここに神の来臨を意味する「御阿礼」が登場することは、秦都理が松尾社を創建するのに先行して、御阿礼神事が行われていたという事を意味している。
「自其以降至于元慶三年二百三十四年」とは、元慶三年(879)までに二百三十四年経過していたなら、その年は皇極天皇四年(645)、乙巳の変があった年であり、知麻留女の子「秦忌寸都駕布」が祝になった戌牛の年は、おそらくその十三年後の斉明天皇四年(658)となる。
つまり、知麻留女が御阿礼を始めたのが皇極天皇四年であり、その後、斉明天皇四年には都駕布が松尾大神を奉祀する祝となり、そして、大宝元年(701)に都理が日埼岑から神霊を勧請して松尾社を創建したものと考える。
本朝文集(1686)に「大宝元年秦都理始建二立神殿一、立二阿礼一居二齋子一供奉」とあるように、秦都理が松尾山麓に神殿を建立し、山上から御阿礼(木)を遷して神殿内に立て、これを齋子(いつきのこ)に供奉させたとすると、もしかすると、神霊の勧請には上賀茂社で行われる御阿礼神事と同じ手法が用いられたのかもしれない。
そして、齋子とは、河合神職鴨県主系図の「大山下久治良」などの譜伝に登場する「齋祝子」と同じく、神霊の出現を神懸りして感知できる古代の巫女(呪術者)だったのだろう。