【古代賀茂氏の足跡】長柄神社 | 東風友春ブログ

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「長柄神社」は、神名帳の大和国葛上郡には「長柄神社 鍬靫と記載し、俗に「姫の宮」と呼ばれ、現在は「下照姫命」を祭神としている。

 

 

長柄神社

所在地/奈良県御所市名柄(大字名柄小字宮)

御祭神/下照姫命

 

しかし、長柄社の祭神は、諸説あって判然としない。

大神分身類社鈔(13世紀中頃)では「長柄比賣神社一座、大和国葛上郡御歳神社曰く、高照光姫命」と記して、葛城御歳神社の別名を「長柄比賣神社」とし、高照姫命を祭神とするため、式内社調査報告(1976)では、長柄社は「高照姫命を祀るのではなかろうか」として、祭神を下照姫命と見ることに疑問を呈しています。

 

兒味鉏高彦根神、坐倭國葛上郡高鴨神、云捨篠社。妹下照姫命、坐倭國葛上郡雲櫛社。次娶邊都宮高降姫神一男一女。兒都味齒八重事代主神、坐倭國高市郡高市社、亦云甘南備飛鳥社。妹高照光姫大神命、坐倭國葛上郡御歳神社

【先代旧事本紀】(平安前期頃成立)より

 

旧事紀(平安初期)によると、下照姫は、大国主神と宗像奥都嶋の田心姫との間に生まれた御子神であり、味鉏高彦根神とは兄妹関係にある。

一方、高照姫(高照光姫大神)は、大国主神と宗像邊都宮の高津姫(高降姫)との間に生まれ、事代主神(都味齒八重事代主神)と兄妹とし、下照姫とは異母姉妹になる。

しかしながら、古事記には「故此大國主神、娶胸形奧津宮神、多紀理毗賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神。次妹高比賣命、亦名、下光比賣命」とあり、「高比賣」の別名を「下光比賣」とすることから、下照姫と高照姫とはよく混同される神でもある。

 

また、姓氏録(815)の大和国地祇には「長柄首、天乃八重事代主神之後也」とあるため、特選神名牒(1925)神社覈録(1870)では、長柄首の祖神である事代主神が長柄社祭神だろうとしているが、長柄首が、果たして長柄社と関係のある氏族かどうかすら分かっていない。

 

 

さて、長柄社は、高鴨社と鴨都波社との間にある「奈良県御所市名柄」に鎮座している。

現在は「名柄」と書くが、古くは「長柄」であり、長柄社の案内板には「長柄の地名は長江が長柄(ながえ)になり音読して長柄(ながら)になった。長江はゆるやかく長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる」と記されている。

葛城山金剛山の間の鞍部は「水越峠」と呼ばれ、葛城(奈良県)から河内(大阪府)へ抜ける道として古来より人の往来があった。

水越峠を越えて葛城に入ると、この「名柄」に出るが、この地は「水越道」「葛城古道」が交わる交通の要衝にあり、長柄社はちょうどこの交点に鎮座している。

 

長柄に関して、日本紀には「臍見長柄丘岬、有猪祝者との記述があり、猪祝がいた臍見長柄丘岬とは当所だとする考えもあるが、臍見長柄丘岬を大和国山辺郡(奈良県天理市)大和坐大國魂神社(大和神社)の地にあてる説もあり、確証はない。

しかしながら、肥後和男氏は「賀茂伝説考」(1933)の中で、猪祝がいた臍見長柄丘岬とは長柄社のあたりとし、長柄首を賀茂氏の流れを汲む氏族と想定して、「鴨の神と猪とが無関係でなかったことを示すもの」と述べ、賀茂祭縁起に「猪頭」が登場することの理由とし、さらに近世の祭礼に「獅子頭」が出る風習と関係するのではと推測している。

「猪祝」の「祝」とは、後世の神官や巫女の前身にあたり、おそらく祖霊信仰に基づく古代の呪術者(シャーマン)のことで、大正七年(1918)、長柄社に程近い場所から銅鐸双鈕細文鏡が出土しており、長柄が古代より祭祀の行われた聖地だったことを物語っている。

 

また、日本紀には「九月癸酉朔辛巳、幸于朝嬬。因以看大山位以下之馬於長柄杜、乃俾馬的射之」とあり、天武天皇九年(680)、天皇は朝嬬(奈良県御所市朝妻)に御幸し、長柄社にて大山の位より以下の馬を看そなはしたという記事がある。

もしかすると、山城賀茂氏の「大山下久治良」もその場に居たのかもしれない。

ちなみに、ここに「馬的射之」とあるのを、下鴨社流鏑馬神事に繋がるものとする説もあるが、続日本紀(797)に天平十九年(747)五月五日に「天皇御南苑、観騎射走馬とあり、騎射走馬は、端午の節句の例として行われていたものが賀茂社でも取り入れられ、新暦により葵祭に近接したものと思う。

 

 

ところで、天武天皇が御幸した朝嬬のあたりは、古代に葛城氏の本拠が在った土地である。

平成十七年(2005)、長柄社から南へ約1.7km、長柄社と高鴨社の大体中間にあたる奈良県御所市南郷において、「極楽寺ヒビキ遺跡」という古代遺跡が発掘された。

この遺跡では、正方形で四面庇付き二階建の大型建築物がかつて存在し、その建物が焼け落ちた痕跡が残されていたそうだ。

 

伏願、大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區、請以贖一レ罪。天皇不許、縱火燔宅。於是、大臣與黑彥皇子眉輪王、倶被燔死

【日本書紀】舎人親王(720)より

 

日本紀には、安康天皇を父親の敵討ちとして殺害した眉輪王円大臣邸に逃げ込んだのを発端に、大泊瀬皇子(雄略天皇)が急襲し、眉輪王共々円大臣を焼き殺したとあり、この遺跡は円大臣の居館跡と推定されている。

ちなみに、この遺跡の柱穴から、分厚い板状の角柱が使われていたことが判明し、このような建物の形状が、奈良県御所市室の「室宮山古墳」から出土した家形埴輪と見事に一致したのだ。

そして、この室宮山古墳の被葬者は、葛城襲津彦が有力視されている。

つまり、極楽寺ヒビキ遺跡は記紀に記された円大臣の居館跡であり、円大臣は葛城襲津彦の子か孫とされる人物なので、居館は襲津彦の時代からの葛城氏の本拠の可能性が高い。

遺跡や古墳からの出土品により、記紀の記述が史実だと裏付けられたのは、非常に稀で貴重なケースと言えるだろう。

なお、古事記は葛城襲津彦について「葛城長江曾都毘古」と記しているが、本拠を「長江(長柄)」のあたりと称したものか、詳しいことは分からない。