何もできない私にも価値がある。強制終了が教えてくれたこと
前回の記事の続きです。『【祝!強制終了】背骨を折り、おむつ生活になって見えた私の『本音』』5か月ぶり?久々のアメブロ投稿です。というか、発信という作業そのものが約半年ぶりですねコーチ、コンサル、セラピスト、情報発信業をしている人なら数か月ぶり…ameblo.jpありがたくも、強制終了が執行され、背骨を骨折、入院、おむつ生活になっていた私の話。なぜ、強制終了が来たのか?ホントはずっと『疲れたよ』『休みたいよ』『ペースを落としてよ』って言ってるのに私は、それを聞かなかった。聞こえていないふりをした。まだできる。まだ頑張れる。私がやらなきゃ。私が動かなきゃ。そうやって、自分の本音よりも、“動ける自分”を優先してきた。そしたら、とうとう、背骨という“軸”を折ることで、実質、動くことが不可能な状態になりました。それはきっと、私の中の私はもう、こう言っていたんだと思います。もうあなたを休ませるには背骨でも折りますわ。これで、絶対安静にしてくれますよね?私の願いを私が叶えた結果の強制終了を12月に執行された時、『あ、やっぱり来たか』って納得だった。最初は、この強制終了のお題は、休養とか、リセットとか、充電なんだと思っていたんです。しばらく休みなさい。ペースを落としなさい。もう無理をしない生き方に変えなさい。そういうメッセージなんだと思っていた。でも、違ったんです。本当のお題は、もっと深いところにありました。ホントのお題はね、『自己価値』の宿題だったんだ。私は、自分の価値をどこかで条件付きにしていたんだと思う。誰かの役に立てる自分。人を救える自分。誰かの願いを叶えられる自分。しっかり者の自分。ちゃんとしている自分。完璧な母である自分。そういう自分には価値がある。でも、何もできない自分には?誰かの役に立てない自分には?迷惑をかける自分には?助けてもらうしかない自分には?私は本当に、その自分にも価値があると感じられていたのかな。ありのままの自分の価値を認めているつもりだったけど、そこが最大の、そして最後の、私が握りしめていたものだったんだと思います。今回の強制終了で、私は、背骨を折りました。自分ではトイレにも行けない。おむつをつける。誰かの補助なしでは、人間として基本的な行為である排泄すらできない。おむつをしていてもおむつからおしっこが漏れてシーツを何度も濡らしてしまう。そのたびに、看護師さんにシーツ交換と清掃をお願いする。本当に申し訳なかった。本当に恥ずかしかった。本当にいたたまれなかった。本当に、何もできない状態。人に助けてもらわないと、生きることすらままならない状態。そこまでいって初めて、私は体験する必要があったんだと思います。何もできなくても、私はここにいていい。役に立てなくても、私は大切にされていい。完璧じゃなくても、しっかりしていなくても、誰かに助けてもらうだけの存在になっても、それでも私は、価値がある存在なんだって身をもって『体感』する必要があったの。「休むこと」がテーマだと思っていたけれど、本当は違いました。私が向き合う必要があったのは、ただ存在するだけの自分に価値を感じること。そこだったんです。これは、休養ではなく、自己価値の再設定でした。生き方の土台を、根っこから組み替えるような時間。この真のテーマに気づけたのは、やっぱり内観の習慣があったからです。もし気づかなかったら、私はきっとまた、同じような課題に何度でも向き合うことになったと思います。形を変えて。出来事を変えて。人間関係を変えて。仕事の問題として。お金の問題として。体の不調として。「あなたの価値は、何かができることではないよ」って、人生は何度でも教えてくれたと思う。だから今回、ちゃんと気づけてよかった。痛かったけど。怖かったけど。情けなかったけど。恥ずかしかったけど。でも、この強制終了は、私を壊すために起きたんじゃなかった。本当の私に還るために、起きたんだ。現実って優しいよね。優しんだ、本当に。もしも、偶然、この記事を読んでくれたならあなたは、自己価値をどんな風に定義しているかぜひ、見つめなおしてみて。誰かの役に立てる自分。ちゃんとしている自分。期待に応えられる自分。頑張れる自分。そんな自分にだけ、価値を感じていませんか?何もできない日も。誰かに助けてもらう日も。立ち止まる日も。迷惑をかける日も。それでも、あなたはここにいていい。ただ、存在するだけの自分に、価値を感じられているか。よかったら、そっと見つめ直してみてください