寝れない錬れない。 | 1000年生きる【休憩中】

1000年生きる【休憩中】

だから花火に行きたいんだってば。

注)長い上に自分用です、興味のある方だけどうぞ。




平日のこの時間に起きてるのは久しぶり。

今日は寝れない気分なのです。


なんだか本日は朝っぱらから理由も無く考え込んでて、

さらにそれに追い討ちをかけるかのようにいろんなこと(自分の中でですが)が起きて、

普通に座ってるだけなのに泣きそうになっておりました。


そのあと運良く飲みに行くことになって、どうでもいい思い出の酒・美少年をのんでみたり。

気分も晴れるかと思いきや、なんだかさらに泣きそうになって部屋に帰りました。


どうにか抜け出したくて元同居人に電話。

そして復活して今に至る、てわけです。



今日考えたことを、そういえば昔も考えてたなと思って読み返してみた。

当時はサークルのことを指しての話だったんですが。

二年前、2004年の3月。


類は友を呼ぶっていうのは言いかえれば
自分の属してる集団は自分の鏡だということだとおもいます。 
その他の集団っていうのはそこに属するのが
偶然に見えても、意に反しているように見えても
結局は自分の投影だと。
だからその集団に対する評価は
自分自身に対する評価ということでしょうか。

先日「勉強しときゃよかった」とか
弱音もどきのことかきましたけども。
確かに後悔した事もちょっとはあります。
でもエゴダンっていう集団を大学生活の舞台に選んだうちは
結局なんだかんだいって
自分自身に満足できているのだと思います、エゴが好きだから。


わたしは場の力ってのをすごく重視してて、

特に人間で作られる『場』っていうの、すごく意識してます。

『場』を変えうるには自分自身を変えるしかないってわかってたのに、

ついつい場を場所と勘違いして外的要因だってことにして、

最近のゼッ不調をほんま人のせい、場のせいにしてました。

だめだこれ。

自分は、ほんとに自分でいるのかな。

『場』と自分の関係見つめて、改めて問いかける。



他人から見た自分っていうのを気にしてたのはここ数年なかったけど

気がついたら他人の目を気にしておりました。

おいおい退化してますよ。









人は、集団行動しなくても輝ける。

教えてくれたのは、高校の時にあこがれてた同級生。


人生の楽しみ方って日常に数え切れないくらいある。

これも、高校の同級生から。


他人の行動を『どうでもいいじゃん』と、流すことも必要。

久しぶりに連絡あったあの人から。


出来る人は、間違いなく努力してる。

これはエジソンじゃなくて流川くんから。


全体のバランス、大枠の時間間隔。

いまも京都のおけいはんから。


大切なことは、とことん考えなきゃいけない。

おそらくエゴについて、一番語り合った人から。


全てを、受けとめる余裕。

千葉のおねえさまから。


口で言うだけだったらだれでもできる、まず行動する。

過去を大切に、未来も大切に。

これは元同居人から。


そして

まず、『それは出来る』と思うこと。

これは、骨の綺麗な人から。



ほんまはもっとあるんだけど

今まで、周りの人が教えてくれたことです。

彼、彼女はもちろん言葉で語ったわけでもなく、

おそらくうちにそんなことを押し付けがましく伝えたわけでもなく、

ただただ普通に生活してただけなのですが、

わたしは勝手に教えてもらいました。

これらに気づいた時は、

それはもうヘレンケラーがウォーターを悟った瞬間、みたいな感じで、

あ、想像ですけども、

やばいくらい、感動した。七つの習慣風にいえば、パラダイムの転換て感じ。


こう、他人のパラダイムを変えるのは、なんぼ言葉を発してもダメだと思う。

それは行動で、全人格で示すしかなくて、

そんで相手が主体的にかんじないと意味が無い。


つまり、場が自分の鏡だというのはそういうことなのです。

各人が影響しあって、それで個々人の転換が場の発展なの。

それは言葉でするのではなく、行動によってしか起こらないものだとおもうから、

場を高めるために何が出来るかといえばそれは、

ただただ自分を見つめること、それだけなのです。





嗚呼、あれもこれも知ってたのに忘れてたよ。

明日からは自分との闘いです。