裁判員制度について | 甲羅に似せて

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ブログネタ:死刑について考えてみる 参加中
少し前に、「12人の怒れる男たち」という舞台を観たんですが、それを観てから、これから始まる裁判員制度について、折に触れて考えていました。でも、なかなか考えがまとまらなくて・・・。

この話は、スラム街で起きた殺人事件で、少年が父親をナイフで刺し殺したというものでした。目撃者も証拠もあり、ほとんど少年の有罪は確実と思われました。一般から選ばれた12人の陪審員たちが、一室に集められ、外から鍵をかけられて、この事件について話し合うのですが、それぞれ忙しい陪審員達が結論を急ごうとする中で、1人の男性が、「この少年のために、1時間だけでいいから、真剣に話し合ってみませんか。」と提案します。

集まった陪審員達は全員男性でしたが、年齢は若い人からお年寄りまでさまざまで、環境も違っていました。スラム街ということで、最初から少年をろくな人間じゃないと決め付ける人や、自分の意見を押し付ける人、逆に意見を求められても、これといった自分の考えがなく、他の人の意見にひきずられてころころ考えを変えてしまう人など、いろいろな人がいましたが、じっくりとひとつひとつの証拠や目撃証言について検証していくと、どれも曖昧で証拠として不十分である事が明らかになり、最終的に少年は無罪になるのです。

その会話のやり取りを聴きながら、お互い育った環境や考え方もバラバラな、見ず知らずの人たちが、その時だけ集まって他人の人生に決断を下す事の難しさを、肌で感じました。

これは、外国のお話ですが、裁判員制度が始まって、もし知らない同士が集まったら、事件について話し合う前に、まずお互いを女のくせにとか、若くて経験もないのにとか、押しの強い、社会的に地位のある人が、そうじゃない人に対して、かけるプレッシャーなんかがあるんじゃないかしらと思ったりします。

もともと、議論を戦わす土台が日本の文化にないのも不安です。学校教育の中で、ディベートみたいな、自分の意見を人にわかるように話す訓練も必要かなと思います。

これから始まる裁判員制度では、有罪か無罪かということの他に、量刑も決めるとのことなので、事件によっては自分のかかわった事件で、死刑を宣告する事もあり得ます。
自分が選んだ仕事でもなく、人を裁くことすらかなり辛いのに、死刑となると、いくら重い罪の人でも、決断するのに相当勇気がいるような気がします。

先日判決が出た、光市母子殺害事件については、被告の考えられないひどい言い訳と、被害者のご主人の裁判に真剣に向き合う様子を見ていて、被害者の方を応援する気持ちが強いし、残酷な事件には厳罰が必要という気になりますが、こういう事件でも公平にと考えた時に、私達はどこまで、被告と被害者を公平に見ることができるんだろうかと自信が無くなります。

時の法務大臣でさえ、死刑執行にサインしないことがあるくらいです。

未成年の事件でも、厳罰化の方向に向かっていますが、もし自分が決める立場になったら、あなたにそれができますかという問いかけも、この制度には含まれているのかもしれません。

それにしても、どうしてこの制度が日本に必要なのかという議論があまりないまま、なにかするするとあっという間に実現にこぎつけてしまったことは、とても不思議な事のように思われます。
どうしても必要な理由がなければ、いったい誰がこんな大変な仕事を引き受けるんでしょう。この仕事の大変さを考えるにつけ、せめてこういう理由でどうしても必要だという、納得できる理由を示してくれたらなあと思います。