それでも(元)名古屋嬢。 -280ページ目

選択肢

標準治療を使い果たした、ということか。


・自宅に戻る

・他所の病院に移る

・緩和ケア病棟に入る


3つの選択肢があった。


毎年、名古屋の夏はとても暑いし(今年はそうでもなかったけれど)

家は狭く、介助入浴などとんでもない。

死期が早まりそうな感じさえする。


他所の病院にアテがないわけではないけど、そこでも

ある程度の期間しか入院できない。

そうなると、また他の病院を探さなければならない。


緩和ケア病棟なら、個室で、今よりも快適な場所だけど

料金は殆ど変わりません。

もし空きがなければ、空くまでここにいていいですよ、ということだった。


父の意見は「涼しくなるまで緩和病棟に滞在する」

・・・避暑のつもりか?


家に帰りたい、と言うかな?と思ってたけど

病院の方が過ごし易いと判断したらしい。


しかし、緩和病棟に入るには、見学と面接が・・・

父と継母だけでは(変な事を言いそうで)心配だったので

姉と同行することにした。






回復してきて一安心・・・?

翌日、個室から4人部屋に移った。


輸血をしてもらって、更に回復した感じ。

もう、そんなに切羽詰った状態ではない、ということかな?


最もナースステーションに近い4人部屋には

父より年上なのが明らかな男性2人と、隣のベッドに

隣の個室にいた、まだ60代くらいの男性がいた。


全員、呼吸器科の患者さん。

この中で、最も重篤な状態なのは父、と思っていたけど

そうでなかった。


数日後、絶食から開放された父の食事を、部屋の入口で受け取ったが

この部屋で食事が摂れるのは父だけ、という事を知った。


父が「向かいのベッドの男性が、ずっと羨ましそうに見ていて

落ち着いて食べられなかった」と言っていた。


また、昨日夕方までいたのに、隣のベッドが空いた。

父が「隣の人は他の部屋に移った」と言っていたが

昨夜亡くなった、という事だった。


翌日、違う患者さんが、そのベッドにいた。

まだ50代位で、明らかに重症だった。


そして、2日位でいなくなった。


そんな中、父は少しずつ回復した。

繋がってたチューブが1本ずつ取れ、全ての点滴が取れ

自分でトイレに行けるようになったところで

いわゆる、がん難民宣告を受けた。






ヤマ場

自分が、ひどい風邪をひいて
咳が止まらなくなった時の事を思い出した。


とにかく、しんどかった。
咳がひどくて、肋骨が折れた・・・という友人もいた。


それ位、消耗するのに

目の前にいる、すっかり痩せ衰えた父は
5分も咳が途切れる事がなく、その度に真っ赤な痰を
吐き出していた。


緊急入院した際に、主治医が
「この3日間がヤマ」と姉に言っていた。


でも、


もう、あまり苦しまずに・・・という気持ちと
まだ早い!まだする事があるでしょ!という気持ちが
自分の中にあった。


後者の方が強いまま、外が明るくなり始めた頃に
父の咳が落ち着いてきた。

そして、朝になって、眠った。


落ち着いたので、帰宅して休んで下さい
何かあれば連絡しますので、と看護士さんに言われ
昼頃に帰宅し、耐えられずに爆睡・・・

本当に「気が抜けた・・・」のだと、今でも思う。