ベリークックという名の西洋レストラン。

澤田は少し周囲を気にする様子を示したが、葵をエスコートして

ウエイターの後を歩いていく。

食事は会話も弾み、病院以外の話も沢山していた。

-ちょっと試す?

澤田が自分の皿をフォークで指してみせる。

-うん。

うん、と答えた自分に少し驚いた葵。

-はい。

自らのフォークで取ろうかとフォークを伸ばしかけた時に、

澤田がラムを一口文切り取り、葵の口の前に持って来た。

顔が真っ赤になるのを意識しながら、ラムの柔らかい肉汁が口を覆った。

澤田は、葵の口元をジッと見つめていた。

澤田が時折、葵の手を強く握ったり緩めたりするのに、

それだけで、おなかの底に深く何か熱いものを感じていた。

冷静になるために葵は思いを巡らせてみた。

最後に今の彼(4年目の付き合いになる)と、

こうして手を繋いで、夜の道を2人で歩いたのはいつだろう?

始めてのデートからずっと車だったから、殆ど2人でどこか行くのに

歩くなんてなかった気がする...そう思うと、2人で見てきた景色とか時間が

あっという間に過ぎて、もの寂しい、心に残らない思い出に

思えてきて、葵は頭を振って、彼のことを頭から追い出した。

...澤田は、どうなんだろう?

彼のフィアンセは、よく彼とこうして手を繋いで

歩いて食事に行ったりして..

葵は、自身がどうしようもない、高い崖の上で、今にもガラガラと

音を立てて落ちてしまう気分を味わっていた。

それは、澤田という男性への、そして秘密の恋という

神秘的なものへの、堕落であったのかもしれない。

手を引かれたまま、葵は澤田の大股の歩幅に合わせるよう、

少しだけ小走りしたが、それに気が付いて澤田は手を離した。

-葵ちゃん、そっか、コンパスの長さが違いますね。

意地悪く笑うと、葵の頭を軽く撫でる。

葵は、仕返しに飛び付きたい衝動にかられたが、

こう地面が凍っていては、きっと転ぶのではと思ってやめた。

そのまま手も繋がず、ゆっくり歩いてくれる澤田の隣を歩く。

アパートの駐車場を過ぎ、澤田はまだまっすぐに一本道の歩道を歩く。

‘車はどこに置いてあるのだろう?‘

心の声を聞かれたかのように、澤田が葵に向き直って言う。

-僕さ、あんまり車は乗りたくないんだ、こんな綺麗な街に住んでてさ、

葵ちゃんとは、一杯、ゆっくり歩きたいって、思って...。ダメかな?

葵の鼓動がまた鳴り響く。

駄目なわけないじゃない、嫌な訳がないじゃない!!

大きく横に首を振って見せると、縦に頷いて、葵は自ら澤田の手を取った。

-ううん、歩くの、大好きだから、さ、連れてって下さい。

                                    

夕方の空は、いつもと同じグレー色だった。

アパートの出口から外に出て、角を曲がった所から、

雪の積もった、冬枯れの庭の桜の木が見える。

もう、雪は降っていなかったが、地面は行き交う車の

ライトに反射してキラキラ輝いている。

暗い色の短めのダッフルコートを寒そうに羽織った

澤田が、そこに、いた!

右左に少し体が揺れているのは、寒いからだろうか...

白いセーターに、赤のチェックのスカート、

そして白い厚編みタイツの葵は、胸の痛みを感じた。

―先生?

笑顔で見上げると、不思議に白く浮かんだような澤田の表情が

一瞬に和らいで、葵ちゃん、と咳払いするように呟くと、

右手を差し出したので、葵は戸惑った。

なんなのだろう?握手だろうか?

一瞬躊躇していたのが、澤田にわかったのか、澤田は、葵の左手を

何も言わずに摑むと、そのまま桜の木の下から歩き出した。

消毒薬の匂いがする、冷たい素肌、温もりのない手...はやる鼓動...

頭の中で色んな思いが交錯するのに、幸せだ、と一番強く感じた。

冬枯れの枝から、凍った雪の塊りが、2人の背後にドサリ、

と音を立てて落ちた、そんな夜の始まり...。

夕方6時10分。

窓からは、変わらず灰色の空と、水分を沢山含んで重たそうに落ちる、雪。

受話器を取ってダイヤルを押す、二度目の番号。

ベルの音が、冷たい廊下を響いている気がする。

3度目で、澤田の声。

―あ、先生?葵です。

―うん、葵ちゃん、澤田です。

葵が笑う。

―あの、手紙の...  (トクントクン 心が鳴る)

―都合、悪かった?  

(悪い訳がないじゃない。)

―い、いえいえ、大丈夫です。はい。

(何でどもってるの?私。)

―え?無理ならいいんだよ

(え~?無理な訳がないじゃない。)

―あ、あ、あの...無理なんてそんなんじゃないんです

(何で喜んでって言えないの?)

―先生、是非、行きたいんです

(言っちゃった...しかも、是非行きたいって...)

澤田が笑う。

―うん、よかったぁ... じゃぁ、アパートに迎えに行くよ。

ほら、桜の木が立つ庭の、あの辺にいるよ。あそこは暗いから。

2人でう。

駄目なはずがないじゃない。

都合が悪いわけがないじゃない。

もう、葵には、先生しか見えていないんだから。

たった数日の出会いで、どうしてこんなに急速に恋に落ちたんだろう?

それは、葵と同じ様に、澤田先生が葵を感じてくれたから。

同じ様に興味を持ってくれたから。

最初に、ナースステーションに入ってきた瞬間から、

もしかしたら、2人とも感じ取っていたのかもしれない。

そんな、歌の歌詞みたいなこと...と思うけど、実際に歌の歌詞になるくらいだから

本当にそういうことってあるに違いない。 テレパシーとか、第六感?

よくはわかんないけど、何かとにかく、ケミカルが2人の間にあったんだ。

ちょっと眠って、ちゃんと準備して、そしてそして、電話しよう。

アパートに着く頃、灰色の空から静かに雪が降り出した。


更衣室で、気分が良くないから、同僚に先に帰っていてくれと伝えた。

いつもは、同僚達と共に病院を出た後、遅い朝食に出掛けたりするのだ。

着替えてロッカーのハンガーに掛けた白衣のポケットを探る。

白い小さな二つ折りの手紙...震える手で開く...

ナイタースキー行きましょうかな?                                              

       葵ちゃん、この前の夜のナイターは楽しかったよ。

      もう、チケットなくさないようにね。今晩、あいてますか?

        良かったら食事でもどうかな?

      オペもないので6時過ぎには帰ってます。

                  澤田   


            

葵の胸がカンカン鳴っている。

あっついあっつい炎の中だ!

すっごく鼓動が早い!!

血流が物凄い勢いで体中を巡っている!!

お昼近くに、夜勤を終えて重たい身体を動かしながら、

一緒に夜勤をした同僚と更衣室へ向った。

一睡もしていないとは思えないお喋りの止まらない

同僚は、彼氏のこと、結婚のことを話していたが、

葵の心の奥までは届かなかった。

白衣のポケットに入れたままの、二つ折りの手紙が

気になっていた仕方なかった。

さっき、眠くてボーっとしていた葵の前に澤田が置いた

二通目の手紙...

また、スキーをしましょう...でもいいじゃない、

それもまるで、デートだから...。

でも、婚約者のいる澤田にとって、

この誘いって、ただの友達、しかも新しい土地での

友達作りの一環なんだろうか??

色々考えても、とにかく早くこの手紙を読みたかった。

同僚が点滴を詰めながら朝の回診前のナースステーションでお喋りしている。

葵は夜勤明けで、何となくぼーっとしながらそれを聞いていた。

もう15分もすると、澤田がやってくるに違いなかったけど、夜中忙しかった為、

カルテを修正する手を止めると、ぼ~っとしていまう。

-うんそうそう、で、週末だけ、来るらしいよ。

-何かねぇ、とても綺麗な人なんだってぇ...。

-へ~、だって、澤田先生って、もてそうだもんね。

-うん、あたしもさぁ、最初からいい男だって思ってたんだよぉ。

-でも、そんな綺麗な婚約者じゃぁ、勝ち目、ないね。

賑やかな笑い声がナースステーション全体に響いた。

-何でもね、中山美穂似で、しかも女医さんだから頭もいい!

葵は、中山美穂を想像しながら、何となく、沈んでいく自分の心が、

寝不足のせいなのか、何故なのだろう...と思いながらも、

澤田先生が私をスキーに誘ったのは、あくまでも社交辞令でしかなかったのだ、

と、首を振って、机の上に顔を伏せて溜息を吐いた。

お喋りが、トローリーの音と共に遠ざかっていくと

後ろから誰かに頭を突っつかれて、葵は素早く顔を上げた。

“眠っていたの?” 澤田だった。

そして、小さな紙切れを、葵の前で開いたままのカルテの上に置いた。

翌日の月曜日、いつもより口紅を念入りに入れる。

いつもより、髪をきちんとまとめてキャップをかぶる。

いつもより、廊下で会う患者さんに、いい笑顔で挨拶できる。

いつでも、澤田が後ろにいてもいいように、

いつでも、澤田が廊下の角から現れてもいいように、

そして、朝の申し送りの途中...

“おはようございます”

澤田が黄色いネクタイを白衣から覗かせて入って来た。

婦長を始め、申し送り途中の看護婦が皆、手を一瞬止めて挨拶する。

“おはようございます” 葵が、軽く頭を下げる。

澤田が見る。

すぐに目を離して、澤田はカルテに手を伸ばしてページをめくっている。

昨夜のナイタースキー、あれはデートと呼んでよかったのだろうか?

葵の中で、そんな疑問が、澤田に寄せる想いが大きくなるに連れて膨らんでいた。

次の約束が無い限り、昨日は、ただの、得意なスキーを一緒にしただけの、

何も特別の意味の無い、行事に過ぎない...。

“…で、葵ちゃん、その交換を今日中に出来そう?”

突然の同僚の声に、頭を上げた。

大きな目をぐるりと回して辺りを見ると、周りは妙に静かで、

婦長も他の看護婦も皆が見ている!

葵は、いつも他の看護士から“葵チャン”と呼ばれている、マスコット的な存在である。

“あ、あの、すみません…もう一回、言って下さい、すみません”

怒られるかと思ったのに、皆が笑った。

背中を向けて、澤田の肩も、揺れていた。