駐車場で澤田の車を降りる時、澤田が聞いた。

―明日の仕事は?

―明日は日勤です。

―じゃ、僕と一緒だね、

―あの、

―今日は楽しかったね、ありがとう。

―あ、あの、ありがとうございました。連れて行ってもらって。

澤田は、ふふっと笑うと、一瞬下を向き、顔を上げたのと同時に言った。

―葵ちゃん、うん、また、行こうっか?

葵は、思い切り笑顔を浮かべたが、自分でも驚くくらいの自然な笑顔だった。

―先生、また、行きたいです。

道には、もう数週間もこびりついた氷の上を薄っぺらく粉の雪が覆っている。

スタットレスを履いた澤田の車が、ゆっくり走り出すのを、葵はスキーを抱えて見ていた。

澤田の姿が四つ角に消えると同時に、職員駐車場に女性が2人入って来た。

遅日勤がおわったのだろう、看護婦に違いない。

スキー姿の葵を不思議そうに見ている。

葵の心がにわかに躍りだした。

秘密 という名の興奮を、初めてこの時感じてしまった。

葵はその夜、心の中でずっと叫び続けた。

澤田先生、私、好きになります!どんどん好きになると思います!

澤田は、その夜、心の中で問い掛けていた。

葵ちゃん、僕は君を好きになるかもしれない、でも、僕にはフィアンセがいる、だけど気持は抑えられないかもしれない、君はそんな僕をどう、受け止めるだろうか??

ナイターの帰りの車の中で、2人はただただ、黙ってしまっていた。



リフトを降りると、葵にゆっくり下まで滑っていくように伝えた澤田。

人気(ひとけ)の無い森の方へと滑って行った。

ストックは1つしかないが、上手くバランスをとりながら滑って行く、

その姿を、葵は立ちすくんだまま見ていた。

その背中を見ながら、確かに葵は、どこかに流れていく

心の行方を感じていた。

痛いほど、感じていた。

車で約45分走ると、そこは既に凍て付くナイタースキー場。

昼間に比べると人の数が少ない分、日中見られる初心者の

スキーヤーの姿は少なくなり、単独でスキーを練習する、または

高度な技で思い切り滑走したいスキーヤーが集まっている。

言葉少なにも、初めてのドライブを終え、ゲレンデに出た。

澤田と葵は、白い息を吐きながらペアーリフトに乗り込む。

久し振りのスキーだったが、すぐに身体が思うように動く、子供の頃から

鍛えたスキーの技は、そうは簡単に忘れたりはしないのだと、確信する。

走りすぎるスキーヤーの中で、何度目かのリフトに乗った時のこと。

リフトは、下車前100メートルほどを、高度10メートルもあるだろうか、

かなり高く、森のような中を通過するのだ。

ぎこちなく黙って座りつづける2人...

下を見ると木々ばかりで、他のスキーヤーの滑りを堪能することも出来ない。

“ あ、”

 

葵が声をあげた。

眼下のライトで照らされた森の中に、ウサギが走り去るのを見つけたのだ。

真っ白なうさぎなのに、走る度に足の裏が茶色く光るように翻る。

“ え?” 澤田が葵を驚いて見た瞬間に、葵は手に持っていたナイターのリフト券

を落としてしまった。

“ ああああああ ” ウサギの姿は消え、空しくチケットがひらりひらり落ちていくのが見える。

下を見たままでいる葵の隣で、黙った澤田が急に激しく動く気配を感じると、

澤田は、手にもっていた自分のストックを一本、チケットの落ちて行く方角に向けて

思い切り投げた。

力強く投げられたストックは、森の少し開けた部分の雪の表面に

垂直に刺さったのが、見て取れた。

葵は、一瞬の出来事に、何も言葉が出なかった。

“ 僕が取りに行くから、大丈夫だよ ”

澤田が微笑んだ。

葵の心臓が、激しく鳴った。

コトンコトンコトン......それはいつまでも鳴り止まなかった。


日勤の後、手紙にある電話番号に掛けると、すぐ澤田の声がした。

-あ、葵ちゃん?

-ハイ、澤田先生?あ、あの、手紙、で、電話しました

澤田がくすりと笑いながら

-今晩、よかったらどうかなと思って…

-一応、スキーもスキーウェアーもあるから、大丈夫ですけど…

澤田が声を一段高くして言う。

-よかったぁ、じゃぁ、車で迎えに行くから、病院の駐車場の前に6時半、

大丈夫?あと、1時間も無いけど...

葵の心臓がドキンドキンと強く鳴っているのが聞こえる。

-はい、頑張って準備します

-よし、頑張れ!

-じゃ、また後で

-はい、失礼します

慌てて一人暮らしのアパートのユニットバスへ駆け込む葵。

現実が信じられないでいたが、よく考え込む時間はとにかく今は無い。

スキーウェアと靴、帽子や小物、スキーを全て玄関にかためると、

大急ぎでシャワーを浴びた。

どうせスキーで汗をかくけど、でも、日勤の後のままで澤田と2人で出掛けるのは

どうしても嫌だった。

シャワーを飛び出すと、待ち合わせまであと25分。

化粧もしなくちゃいけない、香水?スキーするのに??

頭の中は大混乱である。

その日曜日は、朝から降り出した大きな綿のような雪が、

あっという間に世界を真っ白に埋め尽くしてしまった。

葵は、日勤の勤務で病棟にいた。

午後を少しすぎた頃、ナースステーションにいた葵は、

スニーカーの足音が近付いてくるのをを聞いた。

颯爽と入ってきたのは、いつものアイロンがかかった

シャツにネクタイとは違う、色の褪せたブルージーンズに

白いT-シャツ、肩にジージャンを引っ掛けただけの、澤田だった。

彼は、週末でも必ず、日に1回は患者の顔を見に来ていた。

回診というよりは、患者1人1人と、お喋りする、そんな感じの

ものだったが、年配の患者や、老人患者は家族してそれを喜び、

心から笑顔で、澤田を迎えて話をするのだった。

回診を終えた澤田が、他の同僚と2.3 言葉を交わすのを

葵は、見て見ぬふりをするように、盗み見ていた。

他の同僚が、皆、それぞれの担当の仕事に行ってしまうと、

ナースステーションには、葵と澤田の2人だけが残った。

葵は、カルテの記入をしていたので、中央に配置されたデスクに

向っていたが、澤田は黙って、その背後で何か書いているらしかった。

数分の沈黙の後に、同僚の1人が帰ってきて、点滴棚に向かう。

澤田は、“じゃ、ご苦労様”と葵と彼女に声を掛け、

葵の横を通る瞬間に、何かを葵の前に差し出した。

白いA4紙を二つ折りにした、それを葵は澤田を見上げて受け取った。

口角を少し上げて微笑むとそのまま、ナースステーションを出て行く。

同僚は気が付かなかったらしい。

葵は、高鳴る胸を抑えながら、そのノートを開く。

葵ちゃん、今晩 一緒にスキーに行きませんか?澤田

回診が終わり、患者さんが朝食後の下膳を済ませて午睡する、生温かい冬の病棟。

首をポキッと一度鳴らして澤田が、隣の葵を見ないまま聞いた。

葵さん、スキーなんか、するの?

え?スキー?あ、はい、しますよ。っていうか結構、私、スキーは上手いんですよ。

へぇ~。そうなんだぁ。じゃぁ、今度、一緒に、スキーに行こうか?

うん、いいですね。

同僚の看護婦がナースステーションから出て来てぶつかりそうになったので、

2人の会話はここで終わった。

葵は、外来へと帰って行く澤田の白衣の背中を見ながら、痛いくらいに心臓の動きを感じていた。

今のは、ただの会話の流れなのか?社交辞令なのか?

でも、もし本気だったら、ただスキーを習いたいだけなのだろうか?

だけど、この私に?なんでわざわざ?

しかも、私を苗字で呼ばずに、葵さんと、最初から名前で呼ぶのは??

何か特別な意味があるの…??

婚約者のいない街でただ、色々、遊びたいんだろうか…??

゛ 葵さん、回診、一緒にお願いします。 ”

゛ はい、先生。今、準備します。え~っと、今日は包交しますか?”

澤田との初めての回診、白衣の背中のすぐ後ろを歩くと、

葵は、彼の体温が気流に乗って顔をくすぐるのを、感じとった。

突如、澤田が振り向く。

゛ 葵さん、いい名前だね。”

葵には、付き合って4年になる彼がいた。

彼とは、何となくこのまま一緒だったら、いつか結婚するんだろうな...とぼんやり思っていた。

同級生の彼は、いつもタバコの香りがした。いつも白いシャツにジーンズを履き、その彫りの深い顔つきが、そのシャツで更に目立つ人だった。彼は車が好きで、スポーツが嫌いで、洋服が大好きな人だった。

自らの容姿をとても誇っており、愛していたけど、余りそれは鼻にかけない人だった。

とにかく、優しい、優しい、人だった。

タバコの香りが染み付いたシャツに、顔を寄せると安心した、

彼は、そんな葵の大事な人だった。

でも、心の行く道は、わからないもの...

澤田には、婚約者がいた。

同じ大学、同期の女医、美穂である。

とても賢く美しい女性で、名前と同じく、中山美穂によく似た女性だと噂では聞いた。

彼女の元恋人から、澤田は彼女を奪うかたちになり、周囲の友人を巻き込んでの

大恋愛だったらしいと、同じ大学卒業の医者達は噂していた。

澤田は学生時代に幾人かの女性との噂話があり、それを心配したり気にしていたという美穂。

澤田の単身赴任に伴い、彼女が大きく動揺したのはもちろんのことで、澤田に結婚の約束を

迫り、彼らの教授、助教授を含んでの大きな婚約式を終えて、澤田は引っ越してきた。

それが、足枷(あしかせ)にはなっても、澤田を心まで縛り付けておくことは、出来なかった。

幸せな結婚を夢見る若い女医の運命もそこで大きく、変わった。


                        snow