ファンとしての距離感 | リングサイドで野次を聞いた ~独善的ボクシング論

リングサイドで野次を聞いた ~独善的ボクシング論

マニアの隠れ家を目指します。
中津の生渇きの臭い人はお断り。

距離感・・・と言っても試合の話ではありません。
SNSが発達する前、プロ・スポーツ選手とファンの距離は極めて遠かったことを思い出します。
テレビで観ることが多い、プロ・ボクサーやプロレスラー、力士にプロ野球の選手たち。たまにしか会場に行くことも出来ず、会場でもリング(土俵、フィールド)の距離は極めて遠くて、ファンは観客席から眺めることが常でした。
ここでいう距離とは物理的なものでなく、感覚的なものです。ある意味、尊厳と言い換えてもいい。
それが根底にあるからこそ、ファンは好きなことを発することが出来ました。あいつには勇気がない。あそこで踏み込まないと駄目だよ。何であんなことするのかなあ等。それを言っても当面の対象にはなかなか届かない。勿論、届いても所詮は素人の戯言、しかし、それを自由に発すること、それを許容することが許される大らかな雰囲気があった時代。それがSNSの発達前夜でもありました。

いまはどうか。選手とファンの距離はグッと縮まってます。大概の選手はブログやツィッター、フェイスブックなどで自ら情報発信しており、ファンと直接、議論を交わすことも珍しくない。ファンの言葉に耳を傾けることが多くなり、時には反発したりするのも散見します。

無論、それは時代の要請であり、今までは紙媒体のマスコミがそれを担っていたのですが、ネットの普及で紙媒体自体の訴求力が落ちてる以上は自分で何とかしなければならないのは当然だからです。
ただ、それが遠い憧れを身近な存在にしてしまっているのはいいことなのか。
特に会場で試合を見ていて、メインがあるのに知り合いの試合が終わってしまったら帰ってしまう人が多かったりするといろいろ考えさせられます。それを繋ぎとめる訴求力が無いのはメイン・イベンターの責任ではあるものの、そういう客層に頼らなければいけない業界に問題点が内包してるのではないかとも思うのです。
やはり、憧れられる存在であるにはファンと適切な距離感を築くことが大事なのではないかと思います。時に距離感が縮まることはファンにも勘違いを産み出す要因になります。
あたかも特定の選手の後見人であるかの様な振る舞いをしたり、自分もファンなのにファンの代表になったかの如く、関係者に業界の内実を提言したり。そういうエセ関係者を産み出す要因も距離感が狂って来たことの証左ではないのでしょうかね?

自戒の意味を込めて、自分はあくまでも一ファンであり、一観戦者のスタンスを貫きたい。そのため、下手に内情に首を突っ込むよりはあくまでもいいカードを組んでもらっていい試合を観たいという観点から、思ったことを書き綴っていきたいと思う。