人は何かを話しだそうとするとき、「間」を探る。
話し相手の懐に「間」を見出そうとする。
幼馴染のような、気心が「知れていた」関係だとしても
久しぶりに会うのなら、変化しているはずの「間」が
どの程度の変化なのか様子を見る。
しかし。
不安の塊のような人と話す場合、
「間」など見出せない。
不安が露呈しないように
必死にベールをかぶせてくるからだ。
本人にその自覚はない。
沈黙が恐いのだ。
「間」の静けさに同調できない人は
会話そのものに不安を感じる。
静けさが「無関心」と認識されてしまうからだ。
普段、誰かとの会話で優しく流れる「静けさ」に心地の良さを
感じたことがないことで、「無関心」とすぐに認識されてしまう。
とてもとても寂しすぎる…
「私、難しい言い方わからない!」
無理もない。
「静けさ」に傾聴し、静けさに包まれる、
その温度にふれたことがないから…
ホールに小さく響き渡るオルゴールの音色、
大きな窓から見える冬の木々、孫たちと戯れる老夫婦の笑顔…
私にとっては美しすぎる「静けさ」
心を穏やかにするに充分な景色。
「感覚で…」 と豪語する。
理論武装などみっともないけれど
感覚だけでは、会話は成立しない。
心の機微を読み取るには、人それぞれの背景を
想像する必要がある。
その作業に「感覚」など脆すぎる。
同じ屋根の下に30年、40年、50年ともに暮らしていて
以心伝心が顕在し、今までの経験にもとづいた
「感覚」が役に立つのだ。
しかし、経験にもとづく時点で「感覚」ではないが…
「感覚」がフィーリングのことであればの話だけれど。
まして…
7年の歳月を、二日間で同調するには
無理がある。
「間」を見いだせるかどうか
それだけで十分だったはずだ。
溝を埋める「懐」があるかどうかを、
お互いがお互いを見出すために、
静かに流れゆく「間」を味わうその小さな優しさが必要だと、
更に7年経ってここに再確認した。
最も「間」を共有できる相手だと信じていたからこそ、
7年の歳月を遠く思いながら小さく佇み、
諦観するしかなかった。