ナンバーワンを全員が目指すべきなのでしょうか。

○○○大会でナンバーワン、会社でナンバーワン、教室でナンバーワン、

少なくとも全員がナンバーワンにはなれません。

ではナンバーワンになれなかった人達に、輝かしい未来は無いのでしょうか?

 

学校も成績競争社会で、

成績下位の人達には、未来が少ないように仕向ける社会システムです。

異能の人は学校では芽が出ないことが、多いように感じられます。

でも、おおきく社会貢献する才能は異能でしょう。

 

私は小学校では副級長をして成績上位でしたが、

国立大学の付属中学に入ったら、成績は全体の半ばになりました。

 

気が付いたのは、上には上が居るという事でした。

 

社会に出てからもある時は上位、あるときは半ばの人生です。

 

今、地域社会の縁の希薄化が社会問題となってますが、

人には地域でオンリーワンが必ずあるはずです。

本人が気づいていないのか、

地域の人達が未発見なのか、

オンリーワンが役立つ社会が来ています。

オンリーワン・地域一番、二番でも三番でも構いません。

順位争いは無意味です。

お互いの能力を認め合い、協力すれば新しい地域社会の灯がともると思ってます。

 

 

 

 

 

狼狽えるとは、予想外の事態にどうしてよいか分からず、まごまごする、

事のようですか、

 

私が自覚している狼狽えたのは、

夜、妻が産気づいて、病院に行くのは、今か、又はもう少し様子を見て後からにすべきか、

狼狽えた記憶があります。

 

結果的早くても遅くなるより良いと判断してタクシーを呼びました。

当時は練馬区に住んでいたので、お茶の水の病院まで夜なので30分程度で着きました。

母も来て付き添って貰いましたが、生まれるまでにまだ十分時間が有るようでした。

考えてみると狼狽えた原因は初体験という事もありますが、自分の身体では無いので

タクシーの中で生まれたらとか、考えたのでしょう。

 

以後あれ程狼狽えた記憶はありません。

仕事の予想外の出来事でもまこまごせずに、

判断して行動してます。

無論、数多くの失敗と、少ない成功もしましたが、

後悔はしてません。

 

オトコらしさって何だろう。

両親からは男の子らしくしなさい!

と良く言われた記憶があります。

自分の息子達にはあまり言った記憶がありません。

 

両親の時代は昭和の軍国主義で、戦うと出征す、お国のために、

等の風潮を生き抜いた世代です。

 

私は敗戦時に小学校2年、埼玉の浦和市に疎開していました。

B29が高く飛んで、高射砲の音が空しく響いて、

8月15日高砂小学校に行くと、先生からお昼に重大放送があるので

、早く帰りなさいと言われました。

良く聞こえない雑音の多い声で詔勅を聞きましたが、

あまり意味は分かりません。

 

母が弟を背負って聞いてましたが、泣いたので、

どうしたのと聞いたら、

「戦争に負けた」と涙声で教えました。

 

いわゆる「欲しがりません勝つまでは」の風潮が、

一瞬に飛んでいった瞬間です。

 

翌日は駅近くの空に、低空飛行でビラが大量に撒かれて、

拾って自宅に持ち帰ったりしました。

 

でも、何日かすると米軍のジープが走り回り、

子ども達にチョコレートを配ったりしてました。

 

そんな空腹、ひもじい、惨めに育った私達は、

子どもに男らしくとか絶対に言いません。

 

出来るかぎり自由にさせてあげたい心境です。

 

それが、あまやかしにつながったと、

反省している世代も多いと思います。

 

今や何でも簡単に手に入る時代。

手に入らないのは思いやりとか、自己犠牲でのオトコらしさでしょうか。

 

寡黙なオトコらしさを貫いた、健さんの魅力が褪せないのは、

そこかも知れませんね。

 

 

 

 

福岡市簀子小学校の体育館で30日「官兵衛の遺産3」というイベントが開催されました。

http://www.event-navi.ne.jp/stage/d_top.php?eventID=0000043241

 

午前中だけの鑑賞でしたが、

県無形民俗文化財「今津人形」か゜素朴な味で興味深く拝見しました。

写真右下の少年が始まりの口上をのべ、恵比須様がしずしずとお出ましになります。

詳しい歴史を資料から抜粋して書いておきます。

今津人形芝居は、江戸時代後期の弘化年間(1844から48)に、大原の鯉川弥蔵が若者の善導のために操(あやつり)人形を採り入れることを思いつき、当時しばしば巡業にきていた大分県の北原人形芝居(淡路系)から伝授を受け、「大原操り」(おおぱるあやつり)にしたのが、始まりといわれています。
 一時衰退の時期がありましたが、明治初期(1870年代)に当地の鯉川安右衛門等の発起によって復興されました。元来、大原操人形は青年の娯楽と思想善導を目的としていたため青年組に定年制をしいて、主に青年たちの手で演じられてきましたが、座を退いた壮年たちがこれとは別に、北九州八幡西区楠橋の田中新十の人形芝居一式を購入して新座を結成し、青年組の旧座との問で技を競い含い、大原操り人形の全盛期を迎えました。しかしこの新旧両座対立が激化し、村の平和が乱れたため、村民協議の上、人形芝居の廃止が決定されました。
 その後、今津の宗善次郎が、伝統ある大原操り人形の消減を惜しみ、地区の人々を説得して、大原の新旧両座の人形道具一式を譲り受け、新たに今津操り人形「恵比寿座」(えびすざ)を明治24年(1891)3月結成し、糸島郡内をはじめ早良郡、福岡市はもちろん佐賀県内にまで興業にでかけるなど、明治40年代(1907から12)に最盛期を迎えました。しかし、やがて太平洋戦争の勃発で中断、戦後再興されましたが、途中青年層の流出などで再び中断、その後昭和45年(1970)5月、今津人形芝居少年部が組織され以後恵比須座の中村貞義・中村隆暢等の指導で、その伝統が受け継がれることになりました。
 こうして昭和50年代(1975から84)からは学校の文化祭、老人ホームなどの参加等伝承活動を続けています。

http://www.itogura.net/ningyou/imazu-ningyou.htm

博多は2000年も前から、チャイナタウンなんかもあって
  中国の商人と 日本人が一緒に商売を行っていた経済都市であり、博多商人が
  自由に商売などをしていた商業都市でもありました。そこが戦乱の中で1回
  壊滅したので、秀吉は、博多の復興をしようということで、博多の復興をする
  親分として、官兵衛を任命したんです

https://fmfukuoka.co.jp/oshiete/archives/2014/07/post-144.php

官兵衛が太閤まちわりの総指揮者だったとは、このサイトで知りました。

兵法だけで無く、都市計画でも名人だったようですね。

 

又、このサイトにはこんな記載もあります。

 

無論、戦国時代の都市は防衛が主眼でしたから、当然と言えるかも知れません。

関ヶ原の功績を讃え、家康は黒田官兵衛と長政に筑前の国一国を与えます。
52万3千石です!!これは大大名と言われます。
福岡平野のちょっと小高い丘のようなところにお城を作りました。
中津の時からですが、3角形の形をしたお城を作っています。
しかしながら官兵衛はお城が完成する前に亡くなるのですが、このお城の地名はもともと
福崎と言われていますが、長政が先祖ゆかりの地名(岡山県福岡)をつけ
「福岡」となります。

福岡のシンボル「福岡城」を築くと、次に城下町を作ります。
しかし...他の城下町と一味違う城下町だったそうで、博多を壊さなかった。
昔からの商人を戻し、武士を住まわせずに、商人を住まわせました。
(ここは、西洋の都市でよく見られた構図です。)
博多と福岡 商人と武士を別の場所に住まわせ、年に一度は無礼講で、
商人をお城に招待する、という 今の「博多どんたく」のルーツも官兵衛によるもの
なのだと言います。

鎖国をした時でも、黒田藩は外交を絶やすことも無かったそうです。
大河ドラマで、この博多が舞台になりますが、このあたりの顔が描かれていると
もっと深く官兵衛を知ることができますよね!!