多磨霊園(25)  岡田嘉子(女優) | ミリタリーイベント

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多磨霊園(25)  岡田嘉子(女優)

 

 

岡田 嘉子(おかだ よしこ)
1902年4月21日 - 1992年2月10日
日本及びソビエト連邦で20世紀(1918年-1986年。日本では大正時代から昭和時代)に活動していた女優、アナウンサー。

イヤー、大変な波瀾万丈の人生と謎に満ちた人
彼女の人生には、芸術座、新芸術座、恋愛、情死、駆落ち、自殺、政治思想(社会主義・共産主義)、プロレタリア、ソ連亡命、処刑、スパイ、虚構などなどキーワードが並ぶ。

 

*私としては、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」での上品で理知的おばあちゃんのイメージが強い。1934年の「一本刀土俵入り」は数回見た、お蔦さんはもちろん覚えているが「岡田嘉子」と意識して観ていなかったのでイメージが思い出せない。観直そうと思ったが、DVDは手元に有るのに見つけ出せない。

 

芸術座
父が芸術座の島村抱月や劇作家の中村吉蔵と知り合いだったこともあり、1919年(大正8年)、上京、中村の内弟子となる。

新劇
芸術座は前年秋の島村の病死、1919年の松井須磨子の自殺で解散。

    (これは映画「女優」に詳しく描かれている)

1936年、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で、共産主義者の演出家杉本良吉と激しい恋におちる。1931年に日本共産党指導部の密命を受けてコミンテルンとの連絡回復のためソ連潜入を試みたが失敗した。杉本にも病身の妻がいた。

1937年日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。

不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、嘉子は杉本と離されGPU(後の KGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。

日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。拷問と脅迫で1月10日には、岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らや佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイと自白した。
1939年(昭和14年)9月27日、二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認し無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下され、10月20日に杉本は処刑された。

 (ソ連での彼女の実態については不明な所が多そう、どなたかが「彼女は死ぬまで女優だった」と言っていたが、彼女の何処までが真実で、何処までが芝居か?)


戦後、モスクワ放送局(後のロシアの声)に入局。日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で、戦前日活の人気俳優だった滝口新太郎と結婚、穏やかに暮らす。
現地の演劇学校に通い、演劇者として舞台に再び立ってもいた。

(結局何人の男と恋愛したの? 自殺や処刑された恋人もいる。)

日本帰国〜再びソ連へ
1967年(昭和42年)4月に日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場。
東京都知事の美濃部亮吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年(昭和47年)、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。
その後日本の芸能界に復帰し、映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』や、『クイズ面白ゼミナール』『徹子の部屋』などのトーク・バラエティ番組にも出演。

ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と1986年に日本の芸能界を再び引退しソ連へ戻る。
以降、死去まで日本へは2度と帰国しなかった。

                  (Wekipedia、他)

モスクワ市ドンスコエ葬儀場で茶毘に付された遺骨は、モスクワ日本人会の手で故国に帰り、多磨霊園に埋葬された。

墓石は和型「山本家之墓」。
以前は「岡田家之墓」だったが、嘉子の孫娘の嫁ぎ先の山本家のため「山本家之墓」に墓石が変わっている。


滝口新太郎と岡田嘉子の自筆連名と

悔いなき命をひとすじに

と刻む墓誌碑。「悔いなき命を」は1973年に出版した自伝のタイトル。
「山本家之墓」墓石の左面には「岡田家先祖代々之霊位」、裏面に「平成十九年秋彼岸 山本紀治 恵美子 建之」と刻まれている。