多磨霊園(24)  加藤健夫(加藤隼戦闘隊隊長) | ミリタリーイベント

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過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
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多磨霊園(24)  加藤健夫(加藤隼戦闘隊隊長)

 

多磨霊園に眠る著名人のリストを見ていると、何と加藤隼戦闘隊の加藤隊長(少将)のお墓もあった。これはお参りせねばと早速、昨日3月19日に訪れてきた。

 

加藤 建夫(かとう たてお)
1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日
日本の陸軍軍人、戦闘機パイロット
最終階級は陸軍少将。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身
大東亜戦争緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した日本軍を代表する撃墜王の一人。

累計6回の部隊感状(加藤を指揮官とする)に加え、改めて戦死直後に南方軍総司令官寺内寿一大将から個人感状が授与され、後には帝国陸軍史上初となる二階級特進および、異例の功二級金鵄勲章拝受の栄誉を受けた。
個人感状では

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

と評され、大元帥(昭和天皇)の上聞に達し、これによって第64戦隊の戦隊歌(加藤隼戦闘隊)の歌詞は「七度重なる感状」となった。

その活躍と、その人格・人徳から部下からは生前から「軍神」と尊敬されていたが、戦死にあたっては、7月22日には陸軍省から正式に「軍神加藤少将戦死」と国民に向けて発表され、各新聞ではトップ・ニュースとして一面で扱われ一般からも賞賛を得ることになった。
朝日新聞では「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」の見出しに「前線の加藤少将と新鋭戦闘機「隼」」「建軍以来感状の最高記録」の副題を付け、加藤を「隼」の写真とともに大々的に報道し、7月29日公開日本ニュース第112号「脱帽 感状七度軍神 加藤少将」では、在りし日の映像とともに「帝国陸軍 空の至宝 加藤建夫中佐」と謳い、写真週報8月5日号では「噫々軍神 加藤建夫少将」「双葉より神鷲の面影」、9月16日号では「敵空軍恐怖の的 隼」と特集するなど連日大々的に扱われていた。
これによって、「空の軍神」・「軍神加藤少将」・「隼戦闘隊長」として当時の全国民の知る伝説的英雄となった。

                                         (Wekipedia 他)

 

献花は今日されたと思われる。

 

左端の長男の加藤正昭氏は東京大学名誉教授の素粒子物理学者

 

 

軍歌『加藤隼戦闘隊』
「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まるこの歌は、1940年(昭和15年)2月末に南寧に派兵された第64戦隊第1中隊で、部隊の戦意高揚のため生まれ、「飛行第64戦隊歌」となった部隊歌。

冒歌詞歌詞から「隼」と出てくるが、この歌完成時にはまだ一式戦「隼」は存在せず、逆にこの歌から、一式戦が「隼」と命名されたと思われる。

映画『加藤隼戦闘隊』
1944年(昭和19年)に公開された東宝製作の映画。
陸軍省後援・情報局選定の国民映画として公開され、1944年に最も興行成績を上げた大ヒット作となった。内容は加藤赳夫が飛行第64戦に赴任し、戦死するまでをリアルに描いたドキュメント的内容。

冒頭に部隊歌として「加藤隼戦闘隊」が隊員によって歌われる。

戦中の国威掲揚映画だが、当時の名機が多数登場する、貴重な戦争映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっている。
本作品は陸軍省報道部、陸軍航空本部、各陸軍飛行学校、各基地の全面協力のもとに製作され、
映画に登場する軍用機は、この映画のためだけに大半のシーンで一式戦「隼」を始め、九七重爆、九七輸、九七戦といった実機を飛ばし、また敵連合軍機役のF2A、P-40、ハドソンなどは、実際に太平洋戦争で鹵獲された実機が日本軍機と同じく映画のために用意され撮り下ろしされている。また「鍾馗」が敵機役として少数使用され遠景シーンに登場している。

*今日、この映画を見たが、近年カラー化されており、実写と特撮部分との区別がつきにくくなってしまっている。隼の色も機体によっては、青っぽいものも有り、資料的価値が低下していると思われる、モノクロそのままが良かったと思うが。