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成田新幹線

東京都と成田市を結ぶ計画だった未成線

東京都と成田市を結ぶ計画であった未成の高速鉄道路線(新幹線

 

成田新幹線は、東京と新東京国際空港(現・成田国際空港)を結ぶ高速鉄道として、1971年昭和46年)1月に全国新幹線鉄道整備法第4条第1項の規定による『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』により公示された3路線のうちの一つである。

同年4月に整備計画が決定され、日本鉄道建設公団によって1976年昭和51年)度の開業を目指して着工された。

 

東京都江戸川区など沿線自治体の建設反対運動や三里塚芝山連合空港反対同盟の活動が激しく、用地買収が進まなかったため、工事は中断され、国鉄分割民営化に伴い、整備計画は失効した。成田空港付近の既に完成していた路盤など設備は、JR東日本と京成電鉄の空港ターミナルビル内乗り入れ路線として活用されている。

路線計画データ

  • 路線距離:65.0 km
  • 軌間:1,435 mm
  • 駅数:3駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:全線複線
  • 全線電化(交流25,000 V、50 Hz
沿革
 

整備計画決定まで

1966年昭和41年)7月に新空港の位置決定に伴う施策の中で「東京・新空港間に高速電車を運行」することが閣議決定され、1969年昭和44年5月には「新全国総合開発計画」が閣議決定された。この中で首都圏整備開発の基本構想として成田新幹線鉄道の建設および新東京国際空港(現・成田国際空港)の整備の促進が盛り込まれた。

 

1970年昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法(以下は全幹法と略記)が公布された。この法律により、逼迫する幹線の輸送力増強を目的とした東海道・山陽新幹線とは異なり、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。

1971年昭和46年)1月に全幹法第5条第1項の規定による「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和46年告示第17号)により東北新幹線(東京都 - 盛岡市)、上越新幹線(東京都 - 新潟市)、成田新幹線(東京都 - 成田市)の基本計画が公示された。

この基本計画において成田新幹線(東京都 - 成田市)は東京都を起点に成田市を終点とすることが示された[5]。同年4月1日に3路線の整備計画が決定された。成田新幹線は最高設計速度260 km/h、建設主体は日本鉄道建設公団とされた。

着工後

1972年(昭和47年)2月に成田新幹線の工事実施計画が認可され、1974年昭和49年)2月に着工

激化する反対運動

経由地となる東京都江戸川区や千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)・船橋市等では、都市計画の阻害になる点や当時の騒音問題になりつつあった名古屋新幹線訴訟が取り上げられ、さらに通過するだけで鉄道駅がないなどメリットが皆無であるとして猛反発した住民らが地元議会や首長に対して建設反対の強力な働きかけを行い、新幹線と関連すると思しき工事には抗議が寄せられた。

住民のみならず、革新知事として知られる美濃部亮吉東京都知事は、計画自体の凍結を主張した。先んじて成田新幹線構想を国に提言していた保守系の友納武人千葉県知事も、世間の“新幹線アレルギー”を背景に成田新幹線に絶対に反対ではないが、現在の計画には賛成できない」と難色を示すようになった。

 

市川市・船橋市・浦安町の各市・町議会では反対の決議も採択された。特に江戸川区では、区・土地区画整理組合・土地所有者8名が運輸大臣を相手取って工事認可の取消訴訟を行い、最高裁判所まで争われた。

また、成田新幹線が『新東京国際空港の象徴』として受け取られ、三里塚闘争を展開していた空港建設反対派(三里塚芝山連合空港反対同盟)からの反発も大きかった。

このため用地買収もほとんど行えぬまま成田新幹線計画は暗礁に乗り上げ完成予定の1976年昭和51年は元より、新東京国際空港開港の1978年昭和53年)に開業することも不可能になった。

代替案の検討

成田新幹線の計画が遅滞していることにより、東京都心と新東京国際空港(成田空港)が鉄道で直結していない不便な状態が続いたため、成田空港アクセス鉄道問題は、他の解決方法も模索されていた。1982年昭和57年)、新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会が当時の運輸省に、以下の3案を答申した

  • A案(「成田新幹線」計画ルートの再整備)東京 - 新砂町〈現・新木場付近〉 - 西船橋 - 三咲 - 小室 - 印旛松虫 - 成田空港
  • B案(北総開発鉄道北総線(当時、同社北総・公団線を経て現在の北総鉄道北総線)を延伸、後に京成成田空港線として開業)上野 - 高砂 - 新鎌ヶ谷 - 小室 - 印旛松虫〈現:印旛日本医大付近〉 - 成田空港
  • C案(成田線を分岐して新東京国際空港に直結、現「成田エクスプレス」の運行ルート)国鉄(当時)総武本線・成田線の東京 - 錦糸町 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 成田空港

1984年(昭和59年)、運輸省はB案(北総線延伸)を採択し推進すると決定した

工事中止

新東京国際空港開港から5年後の1983年昭和58年)、成田新幹線の建設工事は凍結された。先行工事だけで900億円以上を投じたが、結局、着工できたのは東京駅の一部と千葉県成田市土屋地区成田駅から北へ約2 km、成田線との交差部)から新東京国際空港までの路盤・トンネルおよび、成田空港駅までの約8.7 kmにおける設備だけである。

それ以外にも、わずかながら建設用地の買収が行われた。

 

整備計画の失効

1986年昭和61年)、日本国政府は「再開は困難」として成田新幹線計画を断念し、1987年昭和62年)の国鉄分割民営化の際には「旅客会社が鉄道事業を経営しないものとして運輸大臣が定めるものとされた。

これにより、成田新幹線の整備計画は法的に効力を失い消滅した

すでに路盤工事が完成していた土屋 - 成田空港間 8.7 km(鉄道施設敷 14 ha、工事用側道等 8 ha )の施設は日本国有鉄道清算事業団が承継した

代替案の進展

成田新幹線代替案のうち、先行したのはC案であった。分割民営化直後の1987年昭和62年5月に、運輸大臣石原慎太郎が「成田新幹線に使用を予定していた設備と用地を活用し、京成線とJR線を成田空港に乗り入れさせる上下分離方式案」を指示した。

翌1988年に成田空港高速鉄道が設立され、清算事業団よりすでに完成していた成田新幹線の構造物の譲渡を受けた。既存路線との接続部分の工事などが行われ、第2旅客ターミナルが開業する前年の1991年平成3年に、成田線空港支線)と京成本線(駒井野分岐点 - 成田空港駅間)の形で現実化した。

一方、B案は東京都心と成田空港の高速輸送計画として、京成成田空港線成田高速鉄道アクセス株式会社)に受け継がれる形になっている。京成成田空港線は2010年(平成22年)7月17日に開業し、同時に160 km/hの高速運転が可能なAE形(2代)による「スカイライナー」の運行が開始された。

このほか、京成押上線押上駅 - 新東京駅丸の内仲通り地下) - 京急本線泉岳寺駅を結ぶ都心直結線の構想もあり、実現すれば東京駅から成田空港までの所要時間は、成田新幹線で検討されていた所要時間と2分差となるが、こちらは具体化に至っていない。