巡礼を楽しむ レキササイズ season 4 -13ページ目

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

歴史散策の楽しみのひとつ。霊場巡りをお気楽に楽しんでいます。

レキササイズって、造語です。
歴史散策をしながらダイエットをしようというところから
レキシ+エキササイズの意味合いで名づけました。
ダイエットもそろそろ頑張ります。

この日の朝ごはん前の最後の訪問のお寺です。伊東一族のお寺です。

ワタシが知っていたことだけでも、あぁここだったのかぁということがあります。

まずは、相撲の技の『かわづかけ』の産みの力士、河津三郎祐泰の墓があります。案内板にあるように彼は暗殺されましたが、今でも相撲を見ていると、たまにこの技の名前を耳にすることがあります。

そして、彼の遺児で、頼朝の富士の巻狩りの最中に仇討の物語が残る曽我兄弟の首塚があります。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-東林寺

案内板

稲荷山東林寺  伊東家菩提寺・河津三郎の墓

東林寺の開基は、伊東祐親公です。もとは久安年中 (十二世紀中頃)に真言宗久遠寺と称して開創されたといわれますが、伊東祐親が我が子河津三郎の菩提を弔うために、仏門に入って東林院殿寂心入道と称して、法名にちなんで東林寺と改めました。
天文七年(一五三八)、円芝春徳大和尚を開山として曹洞宗に改宗しました。
祐親は、源頼朝の助命を断って自刃し、以後、東林寺は伊東家の菩提寺となりました。祐親の墓は向かい側の丘の上(大原一丁目)にあり、伊東市指定文化財となっています。
祐親の嫡男河津三郎祐泰は、領地争いのもつれから、相手方の遠矢にかかって、赤沢の椎の木三本で無念の死をとげました。二人の遺児が、母の再婚先の曽我で成長して、富士の裾野で父の仇を討つのが、有名な曽我兄弟の物語です。
河津三郎は、奥野の相撲で大活躍して「かわづがけ」の名を残し、相撲界では大切な人です。昭和三十四年五月、ここで横綱栃錦が土俵入を奉納し、時津風理事長が除幕した相撲碑が参道上がり□にあります。大日本相撲協会の時津風理事長(元双葉山)・現役横綱栃錦・若乃花・朝潮という豪華な顔ぶれです。
この寺の本堂内部の一角(向かって左)は、伊東家のための区画となっており、伊東祐親や河津三郎祐泰など、伊東一族の位牌が安置されています。また、伊東祐親の木像や、千鶴丸(頼朝と八重姫の間に生まれた)の木像もあります。
鐘つき堂左の参道を数十段上がった所に、河津三郎祐泰の墓と曽我兄弟の供養塔があります。参道に沿って三十三観音の石仏も安置されています。
  弘法大師伊豆八十八ヶ所二十七番札所
  伊東七福神第三番布袋尊札所          伊東市教育委員会


河津三郎祐泰墓と曽我兄弟首塚

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-河津三郎墓

2009年4月19日 訪問

葛見神社のそばの電信柱に伊東祐親の墓の案内がありました。

電信柱の『⇒祐親の墓300m』を信用して矢印に進みました。300mほど行くと『伊東祐親の墓この先300m』と案内板がありあました。どこまで行っても300m・・・。そろそろ300mかと思うところで、掃除をしているおばあさんに逢いました。
「祐親の墓はこのあたりですか?」
「そうですね、この坂は曲がっていて、この先300mほどですよ。」
エッ、また300m・・・か・・・。

実距離不明ですが、500m以上坂を上った気分になりました。朝からけっこうきつい山登りになってしまいました。この伊東という町ですが、コチラは観光で早朝散策をしている身です。6時ころなのですが、いたるところで掃除をしている方が目につきます。そういえば、道路はきれいだし、空き缶、タバコの吸殻、ポリ袋など都会でおなじみのゴミ3兄弟の姿はありません。こういうところは観光地を見習わなくてはいけないと思います。

そんなことを思いながらも、見落とさないようにキョロキョロしながら進みました。おばあさんと話をした所から『300m?』でお墓を見つけました。

ツツジの葉に囲まれた一角が見えてきました。葉の無いサルスベリが見えました。左奥に五輪塔と思われる石物が見えてきました。たぶんここが祐親の墓でしょう。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-伊東祐親墓

案内板
伝・伊東祐親の墓所
頼朝挙兵に際し、平氏側に味方した伊東祐親は、捕われの身となり、寿永元年(一一八二年)二月十?日、相模三浦郡に在った女婿、三浦義澄の邸内で自害したとされています。
その祐親の墓所と伝えられるのがこの塚です。
五輪塔の水輪にみられる納骨孔は稀少な例証であり、また地輪に残された種字の薬研彫りは鎌倉初期の手法を伝えるものです。
 昭和五十四年九月二十九日指定   伊東市教育委員会


石碑もありました。

『三笠山さしてまもれるめぐみをば ゆくすえまでも猶たのまなん』

辞世の句なのでしょうか?わかりませんでした。

昔の豪族、権力者は一族の神社と菩提寺を持っていることが多く、それらが現存していると、彼らを偲んだり、歴史の面白さを味わうことができます。特に、神社の規模は彼らの権力の大きさに比例しているように思えます。

伊東家の神社は葛見神社ということです。大神社とは行かないまでも、けっこう広い境内で、木々に囲まれた境内の雰囲気は、なかなか重厚なものがあります。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-葛見神社

案内板
伊東家の守護神・大樟・葛見神社
(祭神) 葛見神(不詳)倉稲魂命 (稲荷神) 大山祇命
(由緒)
全国届指の老樟が千古の縁を湛えて神域に聳える当葛見神社は、今から凡そ千数十年の延長五年に制定された延喜式神名帳所載の久豆彌神社に当てられる古社であります。
住昔、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社は此の庄名を負い、約九百年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐高公(伊東家次-伊東家の祖)が守護神として社殿を造営し、京都伏見稲荷社を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました。
このことは元禄十年(一六九七年)の棟札に「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足十六代後胤工藤太夫祐高之修造也」と記されていたり、慶長十五年(一六一〇年)の棟札に「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近守仰面焼失後造立」ということからも判明いたします。
明治迄は代々の領主から供米が献じられ、又、岡明神と称えて地方民の氏神として信仰されてきました。
このような由緒により明治六年四月新制度により、旧伊東、小室村の唯一の郷社に列格されました。
近年も伊東在住の元首相故若槻礼次郎氏の崇敬を受け、氏は老樟を讃える石碑を寄進いたしました。(大樟右手前)
(例祭)
十月十五日(本来は十月十九日)祭礼時に奉納される神楽は「岡のカグラ」として有名で庁舎(チョウヤ)で演じられます。
二十数年間とだえていましたが、神楽保存会、青年有志により昭和五十九年の祭礼より復活いたしました。
(大樟)
神木の巨樟は樹間二十メートル、樹令千数百年といわれ、本多静六林学博士の著書大日本老樹名誌では、全国第二の老樟とされ、昭和八年二月文部大臣から天然記念物に指定されました。

 老樟を讃へる 勺水(日下寛試)作五言絶句
 霊快神龍に似たり 晴天雲雨起す
 誰が図らむ陵谷の変 一木千古を支ふ


案内板にあるように、巨大な樟は迫力もあり、中世当時のいろいろな出来事にも関わってきたものと思われます。
写真を撮ったときに、何か写った・・・ と思ったら、白い大きな光が写っていました。光のいたずらかもしれませんが、境内には自分ひとり。背筋にゾクゾクを感じたので、巨木から離れました。

音無神社のすぐ前にあるお寺。


伊東祐親が京の大番役が終わり帰宅すると、庭に八重姫と千鶴丸が遊んでいました。ピンときた祐親はすぐに、八重姫を隔離し、千鶴丸を家来に殺害させました。そして、より頼朝に刺客を放ったということです。頼朝は命からがら逃亡し、難を逃れましたが、八重姫との生活もピリオドをうつことになりました。


八重姫が再婚した人物は、江間小四郎。江間小四郎というと北条義時の名前と同じですが、別人とのことです。 八重姫は入水自殺したという説もあり、なかなか興味深い案内版です。
八重姫にまつわる場所としては、八重姫の入水の場所である真珠ケ淵にある真珠院。八重姫の侍女達が自害をした場所の大任町に「女塚」の碑もあるようです。どちらも、機会あれば行って見たいものです。

山門を入ると、すぐ左手に『伊東家の墓』があります。同じお寺に弔われているとは、墓の移設などもありましたが、縁あって今は千鶴丸も伊東家の一員なのでしょう。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-伊東最誓寺

以下いろいろあった案内板です。


門石柱の案内板
最誓寺縁起
開創 鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる
開基 北條氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による
由緒 源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる
変遷 慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る
本尊 阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる


案内板
 市指定史跡
 伊東家の墓
伊東の地に来た伊東氏の先祖は藤原南家の武智麻呂から八代の子孫にあたる藤原為憲と言われています。
藤原為憲から七代の子孫になる家次祐隆の代に狩野から久寝(伊東の池)に移り住んだと思われ伊東氏の歴史を家次から始まりとするのが普通です。
伊東家一族の墓はその昔、最誓寺の南東約0.5kmの東光寺に存在したが、伊東家の衰えとともに江戸末期に廃寺となり東林寺に合併されたが墓(石製五輪、宝筐即塔)は最誓寺に移されました。
一族の墓は伊東氏の歴史を物語る貴重な文化財です。
 指定 昭和40年10月23日


案内板
 伊東市文化財 史跡第一号
 伊東家墓碑由緒
藤原鎌足十六代の後胤、狩野家継は伊東の庄に移り伊東祐隆と改め河津の庄を領した。長男祐家の他、二児をもうけたが妻に死なれ後妻を取りしが、その連れ子との間に生まれた祐継を嗣子として伊東祐継(工藤祐経の父親となる)と名乗らせて、伊東の舘におき、一方嫡流である祐家の長子祐親(曽我五郎、十郎の祖父)を河津の庄に追いやり河津次郎祐親とした。これがやがて伊東家騒動の始まりとなり「仇討ち曽我物語」の発端となるのである。
これら一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東〇・五キロの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえるに同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は、当最誓寺に移されまつられるようになって久しく境内の木陰に苔むしていたものが、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の規定が設定されるや第一号として指定され、今後も永く一族の菩提を弔う為、護寺されるものである。ちなみに当最誓寺は今を去る八百五十年前、源頼朝が伊豆流配の折、祐親の娘八重姫と密通し一子千鶴丸をもうけたが、平家の流れ汲む祐親の怒りにふれ、稚児ヶ渕(この裏を流れる松川の上流)に沈められた後、八重姫が北条家家臣江間小四郎氏に嫁ぎしより、許されて稚児菩提の為に頼朝と毎夜相見しこの地音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けるに始まり、慶長元年、禅宗に改められ寺号も最誓寺となり今日に至る。
寶珠山 最誓寺 二十六世代


日暮の森で会って、音無神社で語らいを・・・。

案内板
音無の森、頼朝八重姫伝承
曽我物語によれば、伊東の北の小御所に住んでいた若き日の頼朝は、伊東祐親の三の姫八重姫と結ばれて、二人の間に千鶴丸と名づけられた若殿が生まれました。
二人が愛を語らった場所が、この音無の森だと伝えられています。
頼朝は、この対岸にあるひぐらしの森で、出会いの時を待って日ぐらし過ごしたといわれます。今はその森に日暮八幡社があり、ひぐらし会館が建っています。
両方の森を結ぶ岡橋(左手に見える)の手すりには、頼朝と八重姫の姿が描かれています。
伊東市教育委員会

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-音無神社

山岡荘八著の『源頼朝』で得たイメージで、なんとなく二人の密会について頭の片隅にあります。記憶では、確か森の中のイメージがあるのですが、川(松川)がすぐそばを流れているとは思いませんでした。千鶴丸が殺されて、遺体が川を下って海岸まで流れてくるのですが、もしかしたらこの川なのかなぁ・・・などと思ったりしながら川を眺めていました。

この神社、穴の開いた柄杓がたくさん奉納されていました。

『音無』の名前の由来、底に穴の開いた柄杓の謂れはネットで確認できました。

『音無』は、11月10日に暗闇で行われる行われる奇祭、『尻摘祭』に由来するそうです。

柄杓は、安産のお礼で、ここに祀られているのは、安産の神、、豊玉姫命です。

2009年4月19日 訪問