文教祖の母親は夫に殴られ、母親は子(文教祖)を鞭で打ち、文教祖は結婚して子供を叩く | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■文教祖の母親は夫に殴られ、母親は子(文教祖)を鞭で打ち、文教祖は結婚して子供を殴り、さらに嫁を殴り、女性信者に対しては韓国人夫の暴力に感謝しろという

文教祖家庭における暴力の連鎖を検証します。
母親に対して褒められるより叩されたことを先に思い出すような家庭。
文教祖の性格はどのように形成されたのか。

文教祖の母親が夫にアイロンで殴らたときに顔についた傷についてのみ言葉です。

『先生が最する母、父。母がどれだけ偉大な女性ですか?今、水澤里に行けば、(私の)母の写真が掛けてあるのですが、それは私の母ではありません。母は美人でした。食べれずにそのように...。いくら(自分の)母だと思おうとしても母だと思えないのです。しかし、一つ記憶しているのは、(顔の)左側のここに傷(筋)があります。

父親と母親が(共同で)娘を嫁がせたり、息子を結婚させなければいけませんが、(私の家は)母親は息子・娘の結婚に責任を持つけれど、父親は(何も)考えていません。あちこち村・近所に世話して、(私の)父は漢文も学んで、四柱(※占い)も見れるので、そういう世話は焼きますが、自分の家庭は気にしませんでした。

ですから母が一人で多くの息子、娘を嫁がせるためにどれだけ大変だったでしょうか?大変だったでしょう。苦労しないはずがありません。
(さらに)春になると、春の農作業の準備もすべて母がしなければなりません。ですからどれほど体がきつかったでしょうか。イライラも出て、それで...。

しかし農地(畑)にいかなければならないのに、舅や夫の祖父まで侍って暮らし、世話をする長男の嫁がやる責任があります。いくら春になっても服が汚れていてはいけませんし、そのために(母が)夜を明かして(文教祖の)祖父の服、曹祖父の服にアイロンを掛けていたにもかかわらず、父はかえってそこに同情せずに、これはして、これはしなかったと(文句を)言うので問題が起きるのです。

それで父も性格が普通ではなかったのです。一度カッとなると虎の性格があるので、アイロンをしているような環境で、(妻が)言うことを聞かないので、アイロン掛けをしていたそのアイロンをつかんで、(アイロンで)母を殴ろうとしたのを(母が)避けようとして受けた傷跡があるのです。

私は子供の頃それを見て「おどろいた、お父さんがそんなことができるのか?」と...。
いろいろわかってみると、そういうこともあるだろうと、事実、生活が大変だったから。そのような環境を中心として、(もし)その傷跡がなかったら、(自分の)母だと夢にも思えなかったでしょう。私はその写真を見れば気分が悪いのです。』

(「文鮮明先生御言選集」464巻より)

(文教祖の母 金慶継 (ファミリー1992年4月号))
顔の傷はどこにありますか?
額から流血したようです。

『私が水澤里(に飾っている)の母親の写真を見ると、私は母の顔を見られないのです。母は美人母の顔であり、壮健です。驚いた!骨の状態、骨格が母だというのが夢で考えても考えられません。母は父が借金をして牛を売って、家を売っても知らないというので、「ああ、一年ぐらい、どうやって、ちょっと集めに出てもいいのに...。」と、母はそのようにいうのです。後で父が来て、父を座らせておいて、涙を流すのです。私が見ても、「お母さんはどうしたんだろう?」と思ったくらいです。
父の性格がどれほどでしょうか? 立ち上がってアイロンがけをしていたアイロンを掴んで行って、他の高いところに投げたのです。投げたのですが、母の額に投げてしまいました。それで、血が飛び散ったのを私が握んで、分別なく泣いた記憶を思い出しますが、今、(母の写真を)見れません。そのお婆ちゃん(文教祖の母)を君たちは同情しますか?この女たち!』

(「文鮮明先生御言選集」480巻より)

当時、使われていたアイロンはコテではないかと思われます。





<息子を気絶するまでムチ(こん棒)で叩く母親>
私は、たくさんたたかれました。細い木の枝でたたこうとするので、私がこん棒を持ってきて、「これでたたいて良い人にしてください」と言ったのです。私は、母の性格に似ました。火のような性格です。それで、母が、「こいつ。お前が一言間違っていましたと言えばすべて終わるのに、それが言えないのか」と言うのです。そのような人です。ですから、たたかれて気絶し、村中に死んだとうわさが立ったこともありました。』
(第六回「安侍日」のみ言葉 2004年6月14日 麗水・清海ガーデン)

『今、考えてみますと、一番忘れられないのは、情緒的な面の中でも、お母さんから誉められたことよりも、ムチ打たれたことです。ムチ打たれたことが忘れられないというのです。ムチ打たれるのは、悪いことをしてムチ打たれるのは、当然なことですね。ところが、悪いこともしなかったのにムチ打たれたことが特に忘れられません。』
(故郷 1989年2月12日のみ言葉 韓国本部教会)

『わたしが幼いとき、「お母さん、悔い改めなければなりません。」と言いました。すると母が、「こいつ、何も知らない小さな子が、お母さんをつかまえてどうのこうの……。」と言いますが、そのような話をしてはいけないのです。
 母がいくら言っても、「わたしが知っている母は、そうではありません。」と言うのです。わたしを叩こうとすれば、「叩いてみなさい。」と言いました。
 びくともせずに、気絶するまで叩かれました。逃げません。そのような人です。そうしてそこで気絶しました。母も大変な女性です。
 母の実家は有名な両班の家なのです。そこに行けば、大臣だったかたたちを祠堂に祭ってあり、そこに入っていって、その服を着て遊ぶのが、いちばん楽しいのです。母方のおじに、褒められるよりも、たくさん叱られました。

(第三十九回「真の神の日」記念礼拝のみ言葉 2006年1月1日 韓国・天宙清平修錬苑)


<叩いて教育(矯正)する方針の文教祖>
『一方、子供たちの基本的な行動をみると、すぐに遊びや反抗という方向へ行きがちであることがわかります。彼らは自由奔放な心をもって生まれてきたのですが、親たちは、いつも子供たちの後を追いかけて訓練しようとします。ときにはお尻を叩いたり、勉強しなさいと強いたりもします。それは自分のためではなく、「社会や国家に貢献できる人にならなければいけませんよ」と、つねに子供たちのためなのです。ときには子供たちを訓練しようとして暴力をふるうことがあったとしても、それは真に子供のためなのですから、後になって子供たちは「あれは自分にとって、最高にいい訓練だった」と悟ることができるのです。
 中には、自分が養老院に入れられたくないために、勉強しなさいというような、利己的な親もいないわけではありませんが、ふつう、勉強しなさいという親の動機は、そういうところにはありません。「親のことなど心配しなくてもいいから、社会や国家や世界のために奉仕する人間になりなさい。生きているうちに、何か世界のために役立つ人間にならなければいけないよ」というのが、本当の親です。しかし実際のところ、肉親からそれほど真理に近い指導を受けた人がどれだけいるでしょうか。それが、あなた方が別の親を捜しに出かけて、ついに真の親を見いだそうとする理由ではないでしょうか。』

(苦難と涙 1978年3月1日 米国・ベルベディア)


<文教祖に殴られて育った真の子女>
仁進は私に言った。文鮮明は彼女を何度も何度もたたきながら、自分は彼女を愛するがゆえにたたいているのだと強調した。彼女が「お父様」の手でたたかれるのはこれが初めてではなかった。彼女は言った。警察にいって、文鮮明を児童虐待で逮捕させる勇気があればいいのにと思ったわ。私は彼女に一番いいブルージーンズと白いアンゴラのセーターを貸し、その話によっていかに衝撃を受けたかを隠しておこうとした。
 「真の家庭」内での新生活のなかでもとくに、文家の子供たちとその両親のあいだの不和は私を唖然とさせた。私は早いうちに、これが暖かく愛情あふれた家族だという考えは間違いだと気づいた。彼らが霊的に完壁な状態に到達しているとしても、日常の彼らの関係にそれを見いだすのは難しかった、たとえばもっとも幼い子供でさえ、日曜の午前五時の家族の敬礼式に集まるよう言われていた。幼い子たちは眠く、ときには不機嫌だった。女たちは最初の数分問、子供たちをなだめようと努めた。私たちがすぐに子供たちを黙らせられないと、文師はかんかんに腹を立てた。文鮮明が自分の子供のひとりを黙らせようとたたくのは何度も目撃したが、初めてそれを見たときの嫌悪感を思い出す。もちろん、彼の平手打ちは、子供たちをますます泣かせるだけだった。

(洪蘭淑著「わが父文鮮明の正体」文藝春秋社 P127)

『私は三歳のとき、お父様の後について米国に行きました。当時、私たち統一教会は、とても多くの迫害を受けていたのです。ですから、私は、子供のころから、学校でも、随分けんかをしました。殴られたこともあり、殴ったこともあります。ずっと困難な中で生きてきました。
・・・私は真ん中の弟として、兄もたくさんいて、大変なことがたくさんありました。すべての兄たちから殴られたこともあります。私は今まで生きてくる中で、随分たくさん殴られました。

(文亨進世界平和統一家庭連合世界会長就任式の祝辞 2008年4月18日 文国進グループ会長(当時))

泣きながら「すべての兄に殴られた」と告白する四男。
四男の文国進氏からみた兄とは、孝進・興進・顕進の三人です。
カットされていますが、そのとき「お父様は怖かった、怖かった、怖かった」と泣きながら語っていました。



<妻を殴る文教祖の長男(孝進)>
『そのことを私以上に思い知らされた者はいない。九四年九月、孝進は私を激しく殴った。私は、彼が私達の寝室で、家族のひとりと午前三時にコカインを吸っているのを発見した。私は怒りをおさえられなかった。「これが家族にさせたい暮らしなの?」と私は尋ねた。「あなた、こんなふうな父親になりたいの?」私は言った。もうこんな生活は我慢できない。私はコカインをトイレに流そうとし、その途中でいくらかを浴室の床にこぼした。彼は私を床に押しつけ、私がとにかく回収できた白い粉をすくい取らせた。彼は私の顔をげんこつで殴り、私は鼻から血を流した。彼は手で私の血をふき取り、それをなめた。「いい味だ」と彼は笑った。「こいつはおもしろい」
 そのとき、私は妊娠七ヵ月だった。彼が私を殴っている間、私は手でおなかを守った。「その赤ん坊を殺してやる」と孝進は叫び、私には彼が本気なのがわかった。
 翌朝、子供たちは目に涙をため、黒くなった私の目には氷を、打ちのめされた私の魂には擁護をくれた。
孝進が私に警告をあたえなかった、と言うわけにはいかない。いったい何度私に言っただろう。自分の中には深い暴力の井戸がある、と。「おまえがおれをあまりにも遠くまで押すと、おれには自分が止められなくなる」いま私には、彼が大げさに言っていたのではないことがわかった。
 孝進は自分のふるった暴力について、なんの後悔も感じていなかった。のちにマンハッタン・センターの側近たちに語ったところによれば、私たちに平手打ち喰わせたのは、私が彼を「怒らせた」からであり、私は彼に、学校時代の教師を思い出させるのだそうだ。その教師は、いつも同級生の前で、彼に恥をかかせようとしたという。彼は言った。あいつは信心深くて口うるさくて、独善的な売女だ。』

(洪蘭淑著「わが父文鮮明の正体」文藝春秋社 P235)


<嫁を殴る文教祖>



<幹部信者を殴る蹴る三男(顕進)>



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※初回更新日 2015-04-13 17:22:52



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※だまされるな! 統一教会=世界平和統一家庭連合です。
(参照:【犯罪隠蔽工作か】統一教会の名称変更を文化庁が認証「世界平和統一家庭連合」に
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