大母様は結婚しても夫とは一度も一緒に暮らしていないのに、お母様を妊娠した | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「洪順愛大母様の二人の夫と命を掛けて愛すると決めた男性」の続きです。

大母様(洪順愛)の実家は、熱心なプロテスタント(長老教)の信者でした。大母様(洪順愛)の名前もプロテスタント(長老教)の牧師の方がつけたくらいです。
もちろん大母様(洪順愛)も幼少のころから既成教会に通い、19歳ごろ異端の李龍道のイエス教に傾倒するまでは、熱心なプロテスタント(長老教)信者だったようです。
本人の証によると、数えの19歳(1932年)ごろに李龍道のイエス教の信仰をはじめたそうですが、1933年ごろから1936年までは大母様(洪順愛)学生で実家の安州ではなく平壌で学生生活をしているはずなのです。(※平壌女子聖経学校)

さらに長男の嫁のはずが、結婚しても一緒に暮らさないというのは、その当時の常識では考えられないことです。

統一教会の公表では大母様(洪順愛)とお母様(韓鶴子)の父とされる韓承運氏が1934年3月5日に婚姻したとしていますが、1930年代の朝鮮儒教が色濃く残っている時代に長男の嫁にかかわらず、一度もまともに一緒に暮らした形跡がないのです。
今でも韓国では長男の嫁は、絶対的に姑に仕えて、先祖祭祀(チェサ)等で相当忙しい生活を送らなければいけないのです。
1934年といえば併合されてそんなに経っていませんので、その当時の嫁の位置というのは相当低いはずなのに、学校に通って子供も産まず、家に帰らないくらいに新興宗教漬けになっているような状態で結婚生活などできるはずがありません。

では時系列で説明します。

■大母様(洪順愛)と夫(韓承運)の所在地(年代別)

1934年3月5日婚姻(教会公表の婚姻日=学生と教師の立場の結婚)
 洪順愛(平壌女子聖経学校で学生 満20歳)
 韓承運(安州私立育英学校で教師 満25歳)

1934年3月から1936年4月まで別居(1934年3月5日婚姻時(遠距離で週末夫婦も無理)) 
 洪順愛(平壌女子聖経学校で学生 1936年4月卒業まで平壌景昌里在中)
 韓承運(安州私立育英学校で教師 地元で1930年8月5日から1939年6月30日まで勤務)
※当時の交通事情を考えて、100キロ以上離れている距離をするのは無理です。週末夫婦も難しいでしょう。それに、安州の異端のイエス教に所属していたとされる韓承運は、当時正当なプロテスタント(長老教)運営の学校に教師としていたので、この辺も矛盾しています。宗教の違いで解雇されなかったのでしょうか??

1936年4月から1939年6月まで別居(1936年4月大母様聖主教入教当時)
 洪順愛(安州郡安州邑信義里の両親の家から、100キロ離れた鉄山の聖主教に通い、ほぼ入り浸っていて、ほとんど家にも帰らない状態)
 韓承運(安州私立育英学校で教師 地元(安州郡大尼面龍興里)で1930年8月5日から1939年6月30日まで勤務)
※大母様(洪順愛)の弟(洪順貞)が1936年4月ごろから卒業する1940年3月ごろまで平壌の平壌師範学校に通っていましたが、休みのとき故郷(安州郡安州邑)の実家に帰ったときの様子をこのように語っています。
『平壌師範学校時代、短い休みの期間に故郷にしばらく立ち寄ると、父は商売のために出張に行って家にいませんでした。また母と姉(洪順愛)も、そのころ、鉄山にある聖主教に通っていた時で、手紙だけ残して家にいませんでした。そこに行こうとしたら、京義線の車輦館駅で降りて、一日歩かなければならないのです。一度、住所を見ながら鉄山まで訪ねていったことがありますが、その時、母はとても喜ばれました。』
(「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」より 弟(洪順貞)の証言)
つまり1936年から1940年までは、夫は一緒に住んでいないで、実家にいたことになります。
こんな証言もあります。
『おばあ様(洪順愛)の生涯を顧みると、全生涯をひたすら神様のみ旨のためにお捧げになり、夫婦生活も家庭もすべて犠牲の供え物に捧げられたことが分かります。平壌聖経学校に在学していたころに、再臨主を迎えるための準備の使命をもった「聖主教団」に入教され、その時から徹底した奉仕生活と天に仕える生活と祈祷生活をしてこられました。』
(「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」より 36家庭・金栄輝の証言)
そして大母様(洪順愛)本人の証言です。
『家(洪順愛の安州郡安州邑の実家)に帰ってきても、二十日余りいてはまた行ったりしました。家に一番長くとどまったときが一か月ほどでした。そのように常に鉄山に出入りしながら、恩恵を受けました。』
(1989年発行「愛の世界」より 大母様(洪順愛)本人の証言)

1939年6月から1941年8月まで別居
 洪順愛(安州郡安州邑信義里の両親の家から、100キロ以上離れた鉄山の聖主教に通い、ほぼ入り浸っていて、ほとんど家にも帰らない状態)
 韓承運(安州郡大尼面龍興里所在の安州私立育英学校の教師を辞職 地元で就職活動)
※洪順愛は実家・安州邑に住み、夫の韓承運は大尼面に住むが距離的に車もない時代、行き来は無理であると思われ、さらに洪順愛は平安北道鉄山郡(100キロ以上離れている距離)にある聖主教に行きっぱなしの状態。夫の実家・大尼面龍興里に長男の嫁としての勤めは一度も果たしていないということは、朝鮮の常識ではありえない。

1941年8月から1942年11月ごろまで別居後離婚(教会公表では「お母様(韓鶴子)」を妊娠して7ヶ月で夫と別れたとしている)
 洪順愛(安州郡安州邑信義里の両親の家から、100キロ以上離れた鉄山の聖主教に通い、ほぼ入り浸っていて、ほとんど家にも帰らない状態)
 韓承運(遠く離れた黄海道延白郡牧丹面に単身赴任 1945年11月まで単身赴任)

一体いつ夫婦として暮らしていたのでしょうか?????
お母様(韓鶴子)を妊娠したときは、夫と称す韓承運氏は、単身赴任していて夫婦関係はもっと難しい状態です。

文教祖はイエスの婚姻についてこのように述べています。

『イエスはアダムの代わりですね。アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。・・・イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。・・・「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。』
(根本復帰 1971年1月10日韓国・江陵教会(聖日礼拝))

これは何を言いたいのでしょうか?
アダムの妻も、イエスの妻も同じ父親から生まれた女性でなければいけないということですが、つまり「兄妹」の関係でなければいけないということです。

この文教祖の理論を当てはめると、文教祖の妻も、文教祖の父の血を受け継ぐ女性でなければならないことになります。
それで、文教祖はこのようなみ言葉を語っています。

『神様が最も貴く考えるのは、近親絶対理想的相対関係であり、近親相姦関係ではありません。それを(サタンは)近親相姦関係にしてしまったというのです。』
(「七・八節」(天地父母天宙安息圏宣布)の御言1997年8月9日九里市水澤洞・中央修練院 )

神は本来、神的近親相姦(近親絶対理想的相対関係)を望んだのであると語っています。もしアダムとエバが堕落しなければ、近親相姦(兄妹婚)も悪ではなかったといいたいようです。

それでは、文教祖の妻も近親者(兄妹関係)の女性でなければ、文教祖の主張する理論にあわなくなります。
それでは韓鶴子夫人は文教祖の妹(または娘)なのでしょうか?

大母様(洪順愛)は、証の中で「自分の夫」だと紹介した人物は、聖主教の教祖の次男の鄭錫鎮氏(別名:鄭平和)でした。

私は、昔、現役時代に大母様(洪順愛)の証を教会機関紙のファミリーで読んだときは、てっきり韓鶴子夫人の父親は、この鄭錫鎮氏だと思っていました。
なぜかというと大母様(洪順愛)の証では、「鄭錫鎮氏がずっと聖別(夫婦関係をしない期間)するのが嫌で出て行った」と書かれてあったので、まさか夫と別れて、さらに再婚して二人目の夫がいると考えられなかったからです。
(参照:洪順愛大母様の二人の夫と命を掛けて愛すると決めた男性

しかし・・・・

文教祖の最初の妻の崔先吉夫人の時は、どうだったでしょうか。
もちろん同じ父親の妹ではありません。それに、再臨主の妻は、エバが16歳の時に堕落したので、満18歳の誕生日まえに結婚しなければならないとしましたが、結局、崔先吉夫人が文教祖と結婚した年齢は満21歳でした。
そして結婚式も、婚姻届も出さないばかりか、前妻と離婚前に不倫の関係で文教祖の息子(私生児)を生んだ金明煕女史は、文教祖と初めて関係を持ったときはすでに満23歳を超えていました。そしてもちろん同じ父親から生まれた血統の女性ではありません。

では韓鶴子夫人だけ、メシアの妻は「満17歳以下」で「同じ父親の血統の女性」としたのでしょうか。

私の推測ですが、文教祖の最初の結婚(崔先吉夫人)の時は、自分が再臨主であると自覚して結婚したのではないことということでしょう。文教祖の理論は、時間の経過とともにかなり変化します。というより、自分の理論が社会問題がおきて都合が悪くなると、前の理論は無かったことになり、変更してしまうのです。

韓鶴子夫人の祖母である趙元模女史が韓鶴子夫人の父親の存在を孫娘である韓鶴子夫人にこのように語っていました。

外祖母(趙元模)は、絶えず私に「お前のお父さんは、天のお父様だ」と言われました。その記憶しか思い出しません。「天のお父様がお前のお父さんだ」と言われていました。
 それで、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様を思うと常に心温まる感じをもったのであり、外的に見れば人々がすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私を包んでくれているような温かい感じがして、常にゆとりのある心で過ごしました。大母様やおばあさんにも、肉身の父親に対してや、またお二人がどうしてこのように暮らされるのかなどといった質問は全くしませんでした。

(「真の御父母様の生涯路程10」より 真のお母様の証より)

具体的に父親の名前がどうで、いつ結婚して等の内容は、韓鶴子夫人は身内から聞かされてこなかったということです。「父親が神様」と言っていたくらいですから、父親の存在は秘密にしたのでしょう。

1973年の大母様(洪順愛)の証には、まったく韓承運氏の名前はでてきません。「お母様の父韓氏と出てくるだけです。1989年発行の「愛の世界」にも、韓承運氏の名前も、「韓氏」という名前も登場しないのです。

韓鶴子夫人の父親として「韓承運」氏の名前が登場したのは、1995年の霊界祝福のときです。
すでに再婚して妻子もちだった故・韓承運氏と大母様(洪順愛)を文教祖は霊界祝福したのです。
そして韓承運氏の妻(池姫善)を別の男性(性徹(僧侶))と霊界祝福させました。
本人の承諾を得ずに、離婚させ、それぞれを別の女性、男性と結婚させたことになります。韓承運氏の後妻の息子は、統一教会に伝道され幹部として教会運営の会社の社長に就任しましたので、裏で取引があったのでしょう。

1973年の大母様(洪順愛)の証には、まったく韓承運氏の名前はでてきません。「お母様の父」が韓氏とも言っていません。1989年発行の「愛の世界」にも、韓承運氏の名前も、「韓氏」という名前も登場しないのです。

1995年霊界祝福が行われた当時は、「韓承」氏として紹介していましたが、2008年発行の「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」からは「韓承」氏の名前に訂正されます。
実は名前もはっきりわからなかったのではないでしょうか。それが10年ものあいだ連れ添った夫婦でしょうか。

私には、どう考えても「韓承運」氏は、韓鶴子夫人の父親には思えないのですが・・・・。

文教祖と同じ父親の血統の女性でなければならないメシアの相対(妻)のはずであれば、「韓承運」氏は、「文氏」の姓でなければおかしいわけです。