文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(1) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文教祖の背中の傷のことは統一教会の信者なら一度は修練会等で聞いたことがあるでしょう。
統一教会では「文教祖の背中には拷問による傷があり、それは日本人警察官による拷問によるもの」であると信者に説明しています。

文教祖は、ことあるごとに「日本人警察官に拷問され、血を吐いた」だの「ムチで打たれ体中傷だらけになった」と説教で語っていましたが、昔の説教では以外にもこんなことを言っていました。

『先生が日帝時代に監獄に入って拷問を受けた時、妹が死んだのです。蕩減にゆえにそうなったのです。』
(私のみ旨と信念 1969年2月2日 韓国・前本部教会)

1969年の説教では日帝時代(日韓併合時代)に妹が死んだとなっています。しかし別の説教では

『今も先生にとって忘れることのできない一つのことがあります。興南刑務所にいた時、私の妹が亡くなりました。・・・先生が一番愛した妹でした。・・・そのように愛していた妹が、私が監獄にいる時、何の病気か分からず、いつの間にか痛みを覚えて亡くなったのです。それを獄中では知らなかったのです。ところが一度、霊的にすーっと現れて、白い服を着て挨拶するのです。「私はこのようになりました」と語るのです。その時が霊界に行った日だったようです。きれいな顔立ちだった妹のことが今でも忘れられません。』
(故郷 1989年2月12日)

実は日韓併合時代が終わった共産党統治下での1949年頃、興南刑務所(北朝鮮)に収容されていたとき妹が亡くなったのです。日本のせいにするために、うまく話を摩り替えています。

文教祖の背中には日本人警察官の拷問による傷があると信者の間では信じられていますが、実は文教祖の「背中には拷問の傷はなかった」とする信者の証言を載せます。

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サボテンのはなのブログ2012年11月11日記事より
http://ameblo.jp/cact12/entry-11401643703.html

『文氏の背中には日本人から拷問でつけられた傷はない。渋谷編』

文師がハワイのビーチで教会の姉妹に
写真をとられています。
それをみた姉妹は何人もいます。
みたという姉妹とも話してます。
文師、背中には日本人がつけたという
傷はありません。                  

198*年(前半)
私が教会に入りそんなに経っていない頃
経済店舗にいた思います。
渋谷の駅でばったり、以前共に歩んでいた
教会の姉妹がかけよってきて、
そして、この文師の写真の話です。

写した人は教会にきたばかりの一ヶ月か二ヶ月たつ
勤労青年部の人で休みにハワイに行ってきたそうです。
その姉妹の話だとハワイのビーチを歩ていると
文師と夫人が海側をむいて座っていて
似てると思いしばらくみていたようです。

そばには付き人のひとが2人いたそうです。
ひとりは文師のある子供の嫁です。
そうこうしてるうち背中に傷がないのに
気がついたそうです。

日本に帰り知り合いの教会の姉妹に
見せていて、私の知り合いも見たというのです。
間違いなく文一行で背中はシャツを
脱いでいて傷など全くなかったそうです。

私はその知り合いに頼んで内緒でその姉妹と
写真をみたいと約束して
スケジュールの都合もあり、一しゅう間後の
同じ渋谷と時間も約束しました。

その後約束どおり会いましたが、、、、
(事情を説明してくれました。)

見せたのがさわぎになり、聞きつけた女性の
アベル(リーダー)も見て上に報告をいれ
当時は2人、広報部の人がいましたが

写真をうつした姉妹とネガと写真を
全部もってくるようにいい会ったそうです。
そしてコピーしていないか確認し
そしてののしられたそうです。

幼い姉妹は何か間違いがあるのでは?
というだけのことでしたが
向こうはそれでゆするつもりと思ったてような
いいかたで本人そうとうシヨック受けたそうです。

挙句の果て、信こうの浅い人に
これ以上騒ぐのであれば
教会離れなさいときつくいわれて
その姉妹それ以来こないとのこと。

本当に誰もコピーしてないか聞いたが
ないらしい。正直に全部わたしたそうだ。
そういう理由なので約束まもれなかった
といわれ、
私と前に会った日からそれは2日後の出来事だったそうです。
私も少しのんびりしてたというか
(自分でしたらコピーしてたと思う。)
少しぐらい主の路程の話が変更する
ぐらいなのに、、、。
後は梨のつぶて、、、。

広報部のことを知る知り合いにその話をして
その後写真は誰の手に渡ったか
聞いたが広報部から上にわたして
それきりだそうです。
その上のひとまで聞き出そうとしたが
さすがにそれはいえないらしい。

まずいーーーー。
何度も書いているうち
ちょっと思い出してきてる

言わないの約束で
何度も確認しているうち言ってくれた。
広報にどうしてこの人がだった 、、、、と思う。
たぶんこの話をきいてかけつけたのだろう。
この人ならそれこそこれで
上をゆすりかねない。
約束だし、確認とれるまでいえません。

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さらにもう一つ・・・・

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サボテンのはなのブログ2012年11月13日記事より
http://ameblo.jp/cact12/entry-11403796400.html

『文氏の背中は日本人に拷問された傷はない.孝進編』

1992か3年頃 アメリカの話で
文師の下に3人の韓国の先生が
3大、大天使長
その下に各リージョン責任者は韓国人
そしてその下にステート、シティは
だいたいアメリカンメンバーです。
イーストガーデンにたびたび会議で
呼ばれる先生方は車や飛行機でいくわけですが
その時にスタッフも何人か連れて行くときもあります。

そのメンバー達からきいたのです。
孝進は原研カープの会長でがんばってたわけですが
当時は文師はよくアラスカにボートでつりに
いってました。
孝進も行った話しを聞いたときは2人きりだというし、
親子でいい話でもできたと思いきや

私のリージョンの教会のスタッフがイーストガーデンに
いくと孝進の怒りようがとまらないという。
それで理由をきくとボートで文師とつりにいき
そのとき文師はシャツを脱いで上半身裸でつりをしたそうです。

そこで背中をみた。
といいそのときから怒り続けているという。
まわりの人たちも何がどうしたの
と手がつけられない様子。

幹部のいいわけは文師の背中の傷をみて
日本人に怒りをおさえられないという。

そうしてまたすぐ同じ人がイ―スト ガーデンに行くことになり
幹部の話と孝進が言うことと違うので
何人かのスタッフはさらに事実を確認しようと
して、とうとう幹部が言ったことは
違うと認めたらしい。

なぜかというと孝進の部屋で2人きりで
理由をたずねた人がいてはなしたそうです。

それによると
私たちが知っているようなことではなく
ただ事ではないとのこと。

ただし、数人のひとだけでその話は
封じたとの事。

その後孝進は教会の事で調べ始めたそうで
嘘でその場しのぎで言ってた幹部も
さすがにとめず、黙ってたとの事

調べた内容は大きい茶封筒にあったらしいが
べットとかつくえにポーンとおいてあり、
メンバーが読んでも孝進は気にしない人で。


さすがにそこんところの内容まで
くわしく教えてもらえませんでしたが
ひとことだけきいてます。
米国の人はきくと一言でも
教えてくれます。
(くわしくいえませんが、、統一教会と***との関係について)
だそうです。
幹部がごまかそうとしたこととは反対で

文師は本当は上半身、裸でいることが
好きで、身近の韓国の幹部は知ってますが
背中に傷をみたというひとのほうがいないのです。

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背中の拷問の傷などないと証言している信者の方は、この方だけでは内容で、当ブログにコメントをされていた中にも、文教祖の背中に傷はないと言う方がいました。
やはり背中の傷などないのでしょう。

・・・・で文教祖が語る「体の傷」とは、一体なんなのでしょうか。

実は文教祖の体には傷があるようです。
それも自分のミスでつくった傷が・・・・・

文教祖はみ言葉で体の傷について、下記のように語っています。

服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。「お前、その時に決意したことを、お前が死ぬ時まで命をかけて行くと言ったその誓いを、忘れてしまったのか」と。その傷跡を見るたびに、朝、昼、晩、眺めながら誓うのです。「この傷をもったお前は勝利しなければならない!」、「勝利しろ」と激励するのです。』
(「真の御父母様の生涯路程2」より)

この「この道に乗り出してきて生じた傷跡」ができた時期はいつだったのでしょうか。
文教祖は16歳の時にイエスから啓示を受けて、「この道」を出発したとしています。それは文教祖がまだ学生のときだったというのは、信者ならよくご存知でしょう。
体の傷は、その時ついたものです。それも文教祖のミスで・・・・。

私自ら学生時代に自炊生活をしました。その頃のソウルの冬は、今頃は平均マイナス十五度からマイナス二十一度の寒い時期であって、寒かったのです。今でも想い出されますが、そのような時にあって、井戸で使うつるべおけの底は鉄になっていたのです。そして冷たい部屋で自炊しながら暮らしました。
 その時、絹織物で作った布団を冷たい部屋に敷いて眠ると、朝起きるとぴたっとそれがそのまま床板に打ち込まれるのです。こうなると、一週間過ぎてもなかなか取れません。ですから、模様のついた板になるのです。火を燃やさないで住む青年が悲惨だと思うかも知れません。寒いですから、仕方がなく電気の線でコードを作って、それを抱いて眠ったので、燃えて今あちこち傷跡があるのです。それを見る時に私は忘れることができません。お母さんにはこのような話をできません。しませんけれども、私の体には傷跡が残っています。

(第三回愛勝日のみ言葉 1986年1月3日 韓国・本部教会)

『ところで、ソウルで学校に通っていた初めての夏休みの時、故郷に帰りませんでした。慕わしいものを克服しなければならないと思っていたからです。その時から道を磨く道でした。その時、夏休みが一カ月ほどだったのですが、故郷に行きたい心がいかばかり切実だったか分かりません。そのようにして二十五日から二十八日ぐらい過ぎると、故郷に帰りたいより、故郷に帰った友達が待ち遠しくなるのです。故郷に帰ることができませんでしたから、それが気にかかるのです。すべての友達が戻ってきてから、呼んで「君は、何をして一カ月間を過ごしたのか」と問えば、「ああ、こうこういうのをした」と言うのです。そうすると、「私もそうしただろうか。次に私が訪ねていく時は、このようにプログラムを作ってこのようにしなければならない」と思いながら深刻に考えたりしたのです。
 その時、夏休み中は、一人で御飯を作って食べて過ごしました。初めは下宿をしたのですが、夏休みになると、友達はみな故郷に下っていったのです。それで一人で御飯を食べるのは多少きまりが悪く、自炊する部屋を見つけました。「自炊もしてみよう。女性はどれだけ大変だろうか」と思って自炊をしたのです。当時は、先生は二十歳前後でしたが、寒い日に御飯を炊くのはなかなか大変でした。ソウルの冬は本当に寒かったのです。普通零下十七度でした。漢江がこちこちに凍らない時がなかったというのです。その時は零下十七度にもなり、とても寒かったのです。自炊しながら御飯を炊こうと、井戸のつるべで水を汲み上げ、ちょっとこぼれると、そのつるべの鉄が凍って手がくっつくのです。それでも部屋に火を焚かずに住んだのです。その時、ふろしきを敷いて一眠りして起きると、模様が床にくっついてしまい、簡単には取れないのです。それが五カ月も取れなかったりしたのが印象に残っています。そのように苦労したことが追憶に残るのです。その時、とても寒くて、電灯を火鉢のように入れて、布団を被せて眠って、電気で火傷して皮がむけたりもしました。それがみな印象的です。それで、ソウルといえば、苦労したその時代を語るのですね。今も、風呂に入って体をさっと洗えば、その傷跡ゆえにその時の時代が思い出されます。そうしながら祈祷していたのが忘れられません。』

(故郷 1989年2月12日のみ言葉)

先生は、今もここに傷跡があります。当時、ソウルは、冬の平均気温が零下21度でした。先生は、7年間自炊をしました。女性世界の心理を分析して理解しなければならないのです。その当時、つるべの綱がおそらく10尋(18.288メートル)はあったと思います。それで、朝早く外に出て水をくむとき、その綱が手にぴたぴたとくっつくのです。それでも火をたかずに生活しました。修養しようとする男性が火をたいて生活しますか。それで、絹のおくるみを敷いて広げておくと、湿ってそのまま跡が出来るのです。きれいに跡が出来ます。ですから、どれほど寒いですか。それでも勉強はしなければならないので、布団をかぶって電球を前に置き、そのようにして本を読んだことが思い出されます。そのようにしながら人生の道を開拓したのです。』
(「み言葉に学ぶ天一国生活」より 1990年2月16日のみ言葉)

自叙伝「平和を愛する世界人として」にも火傷の説明があります。

『定州普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞(現在のソウル特別市銅雀区内)で自炊しながら京城商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二十度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江の水が凍ったりもしました。・・・しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。』
(自叙伝「平和を愛する世界人として」より)

ソウルでの学生時代、暖房の無い部屋で、あまりにも寒いので電気のコードやら電灯で暖を取ったときに自らの過失でできた火傷だというのです。

皮膚がはがれるくらいの火傷ですから、傷も残るでしょう。

では、なぜ「拷問による傷」という話が伝わったのでしょうか。

文教祖が「自らの裸を見せてはいけない」と、常々語っていたことが「拷問による傷」伝説になったと考えられます。

『さらに文師は次のような生活指導をしている。以下は、姜貞遠さんの証言である。
 「あの当時、文先生は私たちを教育されました。『ハンカチも派手なものは使ってはならない。また、人間は尊い神の体であるから、人前で肌を見せてはならない。だから半袖よりも長袖の服を着るようにしなさい』と、統一教会の草創期は男女問題について厳しく言われたのです。それだけではありません。『男女は別々に座りなさい』『化粧はしないように』と、注意されました。」』

(「受難の源流」より 姜貞遠の証言)

『今から結婚した後には、第三者にその手を触らすな。肌を見せてはいけない。先生自体も、そういう貞操を守ってきた。興南のアンモニアの山で、汗を流しながら荷造りをしなければならない立場においても、ちゃんと長袖を着て肌を見せなかった。サタン世界に、神の願うところの基準で一身をささげたということでなければならない。それは守っていかなければならない。女ばかりでなく、男としての貞操もある。』
(6500双聖酒式前のみ言葉 1988年10月29日 一和龍仁研修所)

『そうであるために、お父さん(文教祖)は刑務所で暮らさなくてはならない時、服を脱ぐことができなかったのです。人々は暑いからと言って体を丸出しにするが、私は肌を見せることができなかったのです。してはならない掟が多いのです。守るべき法度が多いのです。』
(一勝日におけるみ言葉 1985年8月16日 イースト・ガーデン)

『先生はもっと話をしたいのですが、時間がたつのが早くてもう二時間もたってしまいました。これで終わりにしますか? もっとやりますか? (はい!)。先生は汗をかいてしまいました。統一教会の三十周年記念日に先生が服を脱いだとしたら、これが伝統として残るためにどんなに汗をかいても服を着ているのです。皆さんがこういう日に服を脱ぐようなことがないようにする伝統を立てるためです。』
(創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日)

文教祖がどんなに暑くても決して上半身裸にならなかったこと、そして上記のような戒めを信者に課したことで「夏でも服を脱がない、いつも長袖を着ている=背中の拷問の傷を隠している」となったと思われます。一種の神秘性=伝説をもたらしたのでしょう。
ちゃぬの裏韓国日記
ちゃぬの裏韓国日記

文教祖は自らも「日帝時代(日韓併合時)に日本人の警察官に拷問された」などと信者に語ってはいましたが、「拷問によりバケツ三杯の血を吐いた」のも「拷問により歯が半分欠けた」のも終戦後の共産党政権の北朝鮮(大同保安署)で、日韓併合時代ではありません。

この「拷問のためバケツ三杯血を吐いた」というのも、後の教会発行書物では「洗面器いっぱいに血を吐き」と変更しています。(人間がバケツ三杯血を吐いたら実際生きていられませんから)

日韓併合時代の終盤、1944年10月から1945年2月まで文教祖は韓国にある京畿警察部で(日本に留学したときではなく)日本の警察官に拷問されたとされていますが、その当時、韓国の警察官の8割は韓国人でした。特に末端の警察官はほぼ韓国人と言えるでしょう。ただ日本風に名前を改名していた時期ですから、流暢に日本語を話す韓国人警察官がいたとしたら日本人だと勘違いするでしょう。取調べ担当が純粋な日本人と断定することはできないと言えるでしょう。
(朝鮮半島全体の人口が1942年には2553万人。日本人は90万人で全体の3%程度)
文教祖は拷問したとする日本人警官の名前をしっかり覚えていて「馬何々」だったというのですが、韓国人が改名していないと言い切れるのでしょうか。本人も「江本」という日本風の名前を名乗っていた時期です。

冒頭に書きましたが、文教祖は何でもかんでも『日本人のせい』に摩り替えるのです。

「バケツ三杯血を吐き、歯が欠けた」ほどの拷問を受けたのは、日本統治下での出来事ではなく、終戦後の北朝鮮の共産党統治下でした。

しかし「文教祖の背中には日本人による拷問の傷がある」と述べている1978年発行の主の路程「統一教会史 上巻」では日本人による拷問がどれほどひどかったかと、拷問方法を具体的に列挙しているのですが、これは韓国の軍事政権下で行われたKCIA(韓国中央情報部)による拷問方法だとみれます。

韓国のドラマなどを見るとわかりますが、下記のような拷問方法で罪もないのに強制的に自白させたのです。拷問の苦痛に耐えられないものは、やってもいない罪をやったと認めざるを得なかったのです。


まるでKCIAの拷問そっくりな表現「水責め」「飛行機乗り」「木の棒をはさんで正座」「電気ショック」

<1978年発行「統一教会史 上巻」より 拷問方法>

 一九四四年十月、職場に通っておられるときに先生は、日警の手により逮捕されたのであった。それは日本留学時代の抗日運動の事実が発覚したためである。
 そして当時悪名を轟かせていた京畿道警察部(京畿道一円とソウル市内の四個警察署を管轄)に連行され苛酷な拷問を受けられた。拷問の焦点は日本での地下運動に対する具体的な内幕とその関連者を暴露せよということであった。

 その時に先生が受けられた拷問の代表的なものをあげてみると次のようなものがある。

 まず始めに「水責め」の拷問である。冬の寒いコンクリートの上に横たわらせ、バケツで冷水を無限にかぶらせたり、飲ませたりして、失神すれば、死体のように投げ出しておく。再び蘇生すれば、またこれを繰り返す。何度も何度も繰り返して自白を促すのである。

 次に「飛行機乗り」がある。これは両腕を後ろに回して両手をひとつに縛り、空中に吊して殴りながら自白を促すものである。最後には両肩の関節がはずれ、前からまっすぐ上に両腕を上げた状態と同じように、手足がほとんど垂直になってしまう。人間の体のことなど少しも考えない苛酷な方法である。

 三番目は、両足の膝の内側にバットのような木の棒をはさんで正座させた後、膝の上を踏んだり蹴ったりして、膝の関節がはずれるようにし、痛みを与えて事実の告白を促す拷問である。

 四番目は、十指の元に電極をはめ込み、電圧を加減して苦痛を与えるもので、全身が感電して、四肢五体がねじ曲がるのである。


 このような苛酷な拷問のため、ある愛国の志士たちは、自分の歯で自らの舌を噛み切って話せなくしたというから、その惨状がどれほどのものであったかということが充分に想像できる。
 このような事情のもとにありながら、先生は瀕死の境に至りながらもなお最後まで黙秘権を行使され、日警は驚嘆を禁じざるを得なかったのである。そして先生以後は一人の同士も捕らえることができず、事件はうやむやに終わったのであった。
 この受難は、翌年の一九四五年二月まで続いた。



下記はKCIA(韓国中央情報部)の「赤狩り(共産党員逮捕)」のために用いた拷問方法です。上記の拷問方法を比較してみてください。

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韓国では70~80年代、中央情報部(KCIA)や軍保安司令部が、多くの在日韓国人を「日本を経由した北のスパイ」として摘発した。日本で金大中拉致事件も引き起こしたKCIAの本部は、ソウルタワーがそびえる南山(ナムサン)のふもとにあった。
 後身の国家安全企画部時代の95年に本部は移転したが、複数の施設跡がまだ南山一帯に点在していた。本館には市の施設が入居していた。受付で「北スパイの摘発はあっち」と教わった近くの別館は実に薄気味悪かった。対共捜査部門の拠点として、地下で水責めや電気ショックなどの拷問が日夜行われたという。

(在日元政治犯、母国で再審無罪 「負の遺産」封印の動き)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2010/110209.html
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尹正憲(59)の場合、京都大学卒業後日本の製薬会社に勤務し、韓国高麗大学校医学部に編入した。そして、在学中の1984年8月27日、軍の情報機関である国軍保安司令部(以下、保安司)捜査官によって自宅前で連行された。拘束令状が発布されるまでの43日間不法拘禁され、殴打、水拷問、電気拷問などのあらゆる拷問が加えられた。その結果、彼は、北朝鮮でスパイ教育を受け、韓国留学後入手した国家秘密を北朝鮮に漏らしたとして、懲役7年の刑を宣告きれた。
彼ら被害者に共通しているのは、逮捕令状のない状態で不法連行・拘禁され、中央情報部(KCIA)や保安司などの情報機関で殴打・水拷問・電気拷問などありとあらゆる拷問を加えられ虚偽の自白を強要された結果、「北のスパイ」とねつ造された点である。
 「北のスパイ」として逮捕された彼らは、刑務所の中でも苦労することになる。当時の韓国の刑務所では、一般囚が青、反政府活動家が緑色(もしくは黄色)、国家保安法・反共法違反(スパイ罪)が赤のマークを胸につけていた。そのため、所内で「アカは嫌いだ! スパイは死ね!」と罵倒されることもあった。

(韓国「民主化」のなかの在日韓国人 スパイねつ造事件・四半世紀のときを超えて(『世界』2012年10月号)より)
http://www.e-sora.net/korea/ronbun2.html
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同じですよね。「殴打」「水拷問」「電気拷問」等あらゆる拷問とあります。
「統一教会史 上巻」は発刊された1978年当時はKCIAの拷問がまだ最盛期だったころです。
韓国人にとって拷問とは「KCIA」での拷問なのです。

そんな拷問を日本人にやられたといえば、1970年代の韓国人信者は日本人憎さも相まって、より「反日感情」をあおることができ、日本人信者には「贖罪意識」を植えつけることができるのです。

「文教祖の拷問による体の傷の真相(背中の傷はなかった)(2)」に続く