真の子女は全員ハーバードの卒業証書と卒業写真を公開してはどうだろうか | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■七男の学歴詐称疑惑が浮上していますが、疑われるのが嫌だったら真の子女は全員ハーバードの卒業証書と卒業写真を公開してはどうだろうか

<経歴をハーバード卒と公表している真の子女>
三女 文仁進
・コロンビア大学卒業
・ハーバード大学院神学科卒業

三男 文顯進
・コロンビア大学歴史学科卒業
・ハーバード大学経営修士課程卒業

四男 文國進
・ハーバード大学経営修士課程卒業
・マイアミ大学MBA(経営学修士過程終了)

五女 文善進(写真あり)
・ハーバード大学心理学科卒業
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七男 文亨進※学歴詐称の疑い
・ハーバード大学哲学科 比較宗教学科卒業
・ハーバード大学 神学大学院卒業



韓国は日本以上の学歴社会であり、権威主義社会です。
そして文教祖も自分の子供たちがハーバードを何人も卒業したと自慢していることを見てもそうですし、文教祖が昔、日本に来日したときに同じ同胞(在日韓国人)に「私は早稲田大学を卒業した」などと大嘘をついたということは、典型的な韓国人的発想といえましょう。深層心理にいつも『見栄をはる(虚栄心)』が根底にあるのです。
見栄を張る裏側に、相手より劣っていたら「さげすんで見られる」という恐怖心がついて回っているからなのかも知れません。(簡単に言うと劣等感)

韓国は李氏朝鮮時代まで長年の間、国民の多数が「奴隷」として生きざるを得ないような過酷な社会であったために、権威、権力、財力のみが人間にとっては一番重要だとされるような風潮になり、現在の韓国でもそれが引き継がれているようです。

「どんな手段を使ってでも一番にならなければいけない」

韓国人の思考の根底にあるのはこれです。

「正々堂々」「人に恥じないように」「人に迷惑をかけない」と言ったような倫理的・理性的感覚、そして「人格」は二の次です。

「まず勝つこと」です。勝たなければ、相手につぶされてしまうと思っていますから。しかし、上になれば「王のように」「支配者のように」下の者に命令できることが「成功」と考える韓国人は少なくありません。(ちなみにうちの旦那(韓国人)もそう(^^;)

しかし究極の『為に生きる家庭=真の家庭』に学歴がそんなに重要ではないと思いますけどね。
真の家庭に『嘘をつかれた=裏切られた』という失望感があるだけで・・・・。
あの世(霊界)に学歴は持っていけませんが、『嘘をついた』という良心に反することは引っかかるわけです。

文教祖はみ言葉の中で『真の血統を受け継ぐ子女』についてこのように語っています。下記のみ言葉は、まだ長男の孝進氏の問題が表に出る前に語られたもので、まだカモフラージュできていた時期です。

『聖なる男性と聖なる女性が、聖なる愛、聖なる命、聖なる血統が動いてそこに連結され子女を生むときは、その子女は天国に直行するのです。宗教が必要なく、修養が必要ありません。
 心と体が90度の角度を備え、愛とすべてのものが損失なく育ち、内外が整えば、教えてあげなくてもみんな分かるのです。私はそうです。習ってから統一教会の先生をしているのでしょうか。さっと分かります。既に何がどうだということを知っているのです。教えてくれなくても分かるのです。』

(「罪と蕩減復帰」より 1990年12月30日のみ言葉)

文鮮明教祖の息子・娘は
「真の子女は教育しなくても自ら悟りわかるので、天国に直行(神が直接主管)する」

そうです。
文教祖も誰にも教育を受けなくても自然に神の品性(創造本性)が発揮されたようなことを言っています。自然にわかるのですから、問題が起きたのは弟子(教育係)のせいというのもおかしな話です。

神に直接主管されている完成された夫婦(天的三位基台)はそれだけでもサタンの侵入がないのに、ましてや完全な四位基台(天的四位基台)は、もはや歴史で今まで一度もなかった完全な家庭です。完成した家庭で堕落が起こったら、永遠に地上天国・天上天国も来るはずがありません。

ですから文教祖は長女・長男が生まれた時、「天的四位基台が完成した」と信者に説明したのです。

神が直接主管できる家庭のはずですが、しかし結果は・・・・・

長女 文誉進 離婚
長男 文孝進 離婚、再婚、不倫、麻薬
次女 文恵進 生後8日で死亡
三女 文仁進 不倫の末に私生児出産(離婚危機)
次男 文興進 17歳のとき若死(交通事故)
四女 文恩進 離婚後、一般人と恋愛結婚
三男 文顕進 子供が1歳で死亡
四男 文國進 不倫の末に私生児出産、再婚
五男 文權進 子供ができない
五女 文善進 子供ができない
六男 文栄進 離婚後、投身自殺
七男 文亨進 学歴詐称疑惑
六女 文妍進 祝福受けず、同性愛の映画製作
七女 文情進 祝福受けず、自殺未遂


誰にも教わらなくても自律的に天国(神の直接主管)に直行する真の子女の問題行動は原理的にどう説明するのでしょうか。

もしアダム・エバが堕落しなかったら、天使長はサタンになる必要はなく、アダム家庭を守護する天使としての役割を果たし、アダム・エバの子供はサタンの血統ではないので、自然に個性完成するはず・・・・。(あくまでも統一教会の教義ではということだが)

文教祖は原罪のない子女は神と霊通できると話していましたが・・・・。

文教祖が考えた原罪のない完成人間は
1.神と話が自由にできるはず
2.霊界を自由に行き来できるはず
3.死んだ先祖とも自由に話をしたり呼び出したりできるはず

(参照:文教祖が考えた原罪のない完成人間は

『神は、私たちの最初の先祖だったアダムとエバを中心として、地上に真の平和の世界を定着させようと考えられました。もし彼らが堕落せずに神のみ旨のとおりに成長して人格を完成していたならば、神の祝福とともに真の家庭を築いて、罪悪と苦痛のない理想天国を創建したはずです。
その世界は永遠の平和世界として築かれたはずであり、人類は子々孫々、神の直系の子女たちとして、神と直接に交流するのはもちろん、霊界に行った先祖たちとも自由自在に交流し、往来しながら幸福な生を享受したはずです。罪を犯したくても犯すことのできない絶対なる善主権の世界となったはずです。』

(「天地父母統一安着生活圏大会」より鶴子夫人の講演文 2002年8月5日)

文教祖自身は「自分は神と話ができる、霊界を行ったりきたりできる」などと言っていますが、文教祖以外、真の家庭で神様と話ができ、先祖と交流できるという真の子女は聞いたことがありません。

堕落しない家庭は、霊界と肉界のすべてに通じることができます。「おじいさんのお父さんは誰ですか」と言えば、見ることができるというのです。また、そのおじいさんのおじいさんが誰なのか、4代の先祖が誰なのか、5代の先祖、100代の先祖、1000代の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。そして、「アダムとエバがどのような顔つきか」と考えれば、「このような顔だ」と現れるのです。「私の目もアダム、エバに似たなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ」と言うのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は、4種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の4種類でしょう。「ああ、手足も同じだ! 私のように目もぱちぱちしますね! 言葉も話しますね! 似ている! ああ、こんなに似ているんだなあ!」と言うのです。』
(「人間の生と霊魂の世界」第2章 霊界はどのような所か 1991年2月3日のみ言葉)

『第一に、堕落人間の心霊が復帰されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、既に述べたとおりである。それゆえに、アダムとエバも、不完全な状態ではあったが、神と一問一答した段階から堕落し、その子孫たちは、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、堕落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるに従って、漸次その心霊が復帰されるので、終末に至っては、使徒行伝二章17節に「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒たちが、神と霊通するようになるのである。そこで、現世に至り、霊通する信徒たちが雨後の竹の子のように現れるのを見れば、現世は終末であるがゆえに、人間が個性を完成し神の第一祝福を復帰することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。』
(原理講論 人類歴史の終末論)

『我々人間祖先が堕落しなかったならば、天と一問一答しながら天の愛を代表することが出来ました。』
(復帰の恨み 1971年3月19日 ソウル)

文教祖の予言がはずれたのは、聖婚の最初からです。
韓夫人との最初の子供は「男の子=王子」だと信者には断言していたので、第一子出産のとき信者は「王子様来る」の横断幕を掲げて期待して王子が生まれるのを持っていました。しかし結果は女の子でした。
(参照:真の血統は第1子・男が必須条件(1)
聖書の例を原理的に解釈すると、もうその時点で摂理は終わっています。
チャンスは一回きりですから。
マリアが産んだ子が女だったらそこで終わりです。
統一教会的に言えば、原理的条件が充分に満たされていれば失敗はないはずです。
万が一、失敗したら長い年月(蕩減期間)が必要です。
摂理の中心人物の代わりはいないのですから。しかし簡単にすぐ中心人物をたて「みなし蕩減(代理蕩減)」をさせているのです。

文教祖は「代理蕩減はありえない」という説明をこのように言っています。

『代理蕩減という神が決定して、そういうふうにやれという命令を持ってやらなくてはならない。そういう命令を神はしない。代理蕩減という、そういうふうになればいいけどね。先生が代理蕩減の蕩減をやらせようとすれば、こういう教会長でもやらせてたらいいじゃないの。教会長になる。代理蕩減と言えば、一つの立場に二つが立っている。そうだろう。それは何かというと、人が生まれる時、二人が生まれるという問題、死ぬ時も一緒に死ぬというんだね。そんな事あるか?
 ないんだよ。一人ずつ。だから復帰の路程においては前後関係である。背後関係は許さない。だから親が行く道、別であり、子供が行く道、別である。共には行かない。夫婦同士も同じである。これは復帰されて、神の心情を中心として祝福されて、愛の結合を成した場合には、一人が行けば追いかけて来るんだね。そうだけど、復帰過程においては許されない。わかる?(「半分ぐらいわかります」)。半分ぐらいわかる。なんで?(「時間性が」)。朝飯はね、自分のお父さんが自分の身代わりに食べてくれるか?
 それを思えば、問題じゃない。すぐ解決する。呼吸を、「ああ、お父さんちょっと待て、私が呼吸してやるよ。十分だけ待って」。できるか?』

(日本幹部へのみ言葉 1967年6月13日 東京)

要は摂理を担当している中心人物の代わりはいないということ。その場ですぐ代替はできないはずです。
「私の代わりにご飯食べておいて。自分が食べたことにするから」などというのはありえない。

中心人物はまさにその人ただ一人であって、代わりはいないということ。
聖書の中の中心人物が失敗したら、摂理も失敗し相当長い「蕩減期間」が必要なはずなのに、文教祖の時代に限っては、失敗はなかったことになってます。おまけに失敗したことさえも隠蔽されています。

文教祖の母親の失敗の蕩減を崔元福女史に代理蕩減させたり、ノーべル平和賞の代わりに自分が自分に賞を送ったり、都合のいいように妄想解釈した内容で神の摂理に勝利したといわれてもね~。
(参照:文教祖の自画自賛

自ら語った原理も無視して「勝利じゃないけど、自分の教会信者の代替でまあ勝利したことにしておこう」とすることは単なる自己満足の域をでることはないでしょう。