文教祖の自作自演の自画自賛(1) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■世界の誰も自分にノーベル平和賞を与えないので、悔しいので自分で自分に賞をあげちゃいました。

10年以上前の話ですが、2000年8月20日に文教祖が『国連の理想と役割の設定などに寄与した功労で、世界平和NGO世界会議から「万国平和賞」を受賞』したことがあります。
(統一教会柏教会公式HPより)
http://kashiwa-ch.com/2009/12/%E3%80%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%80%8D%E3%81%AB%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%89/

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(世界平和NGO世界会議(WANGO)」から「万国平和賞」を受賞した文師夫妻(2000年8月20日、国連本部内ダイニングホール))

この「世界平和NGO世界会議(WANGO)」は実は文教祖が2000年に創設した団体です。
初代会長には36家庭の郭錠煥氏が就任、2010年には二代目会長に6000双の黄善祚氏が就任しています。

『また、国連は非政府民間団体・NGOの意見を多く取りまとめていかなければなりません。私がWANGOを創設した理由もここにあります。』
(「神のみ旨から見た平和への道」より 文鮮明教祖のメッセージ 2001年10月20日 ニューヨーク・ヒルトンホテル)

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(WANGOのロゴ。しっかり統一教会の組織とわかるマークです)

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(2002年WANGO初代会長の郭錠煥氏(36家庭)が賞を授与する様子)
http://www.wango.org/default.aspx

2000年当時、文教祖は本気でノーベル平和賞をねらっていました。しかしそれはかないませんでした。
しかしそれがかなわないと分かって、自ら「国連のNGOのような団体」を組織し、授賞場所も国連本部の一室(ダイニングホール)で行いました。
実際はWANGOは国連のNGO団体としての認定は受けていません。
国連に無数にあるNGO団体をとりまとめる、NGOの労働組合のような役割をする団体として設立したのです。
統一教会で国連NGOとして認定されたのは二つ(1997年世界平和女性連合と2004年天宙平和連合(UPF))です。

日本総会長であった430双の劉大行氏も当時説教の中でこのように語っています。

『この世では、ノーベル賞があります。そこには政治の分野や多くの分野での賞があります。ところが真のご父母様は、何か一つの分野の平和賞ではなく、地球上の万国を解放し平和にする立場で実績を立ててこられたので、このWANGOが「平和万国賞」を真のご父母様にささげたのです。その賞を国連の中でささげました。』
(2004年5月16日劉大行総会長の説教より 東京・本部教会)

『今回、ノーベル平和賞を誰が受けましたか? 北朝鮮に行ってみると、金大中大統領が一人で受賞したことに対して、少し寂しい思いをしていました。金大中大統領と金正日総書記が一緒に受ければよかったと思っています。
そのように考えてみると、世界平和のために尽力したということであるならば、真のご父母様以上のかたが、どこにいるでしょうか? ノーベル平和賞を受けるならば、数十回、数百回、真のご父母様は受けられることでしょう。しかし、真のご父母様はそれを願っておられません。
今年(二〇〇〇年)の八月十八日の夜、国連において、真のお父様は「万国平和賞」を受賞されました。全世界のNGO(非政府組織)が連合したWANGOからの「万国平和賞」です。ある個人が、ある地域のために働いた内容ではなくて、万国の平和のために一生を過ごされた真のご父母様に、「万国平和賞」をさしあげたのです。』

(2000年11月11日劉大行総会長の説教より 東京・新宿教会)

劉大行総会長は信者向けの説教の中で「真のご父母様はノーベル平和賞を受けることを願っておられません」と語ってはいますが、実際、文教祖は授賞できなくて悔しさいっぱいのようです。

授賞できなかった悔しさを文教祖はみ言葉でこのように述べています。

『また、ノーベル賞をもらうべき文総裁ですが、何も分からない者たちが集まって、ノーベル賞をだめにしたので、国連のWANGO(NGO世界会議)が、「国連の名で賞を授与する。」といって、万国平和賞をもらった人が、私なのです。(拍手)』
(「天宙平和統一家庭堂」結成大会におけるみ言葉 2003年3月10日 ソウル・リトルエンジェルス芸術会館)

そして「ノーベル賞」が欲しくてたまらなかったのですが、誰も「ノーベル賞」を授与しないので、「あげると言ったが私が断った」ということになりました。(これは韓国人特有の感覚です)

『大学を卒業して、何かの博士であるといって……。わたしのもとには、学士、博士がたくさんいます。「ノーベル賞を与えましょう。」と言うのを、はねのけてしまいました。今でも、そうです。
 以前、国連のNGO(非政府組織)世界会議を通じて、「万国平和賞」を受賞しました。ほかの人であれば、自慢して、新聞に広告を出しますが、わたしはしません。わたしに対して、そのようにすることができる忠臣に、そのような賞を与えてから、歴史の伝統を残さなければなりません。』

(「神様王権即位式」二周年記念式典におけるみ言葉 2003年1月13日 韓国・天宙清平修錬苑)

この国連NGOも文教祖自ら作った組織であるのに、恥ずかしい話です。

こういうのを自作自演というのですよ。

しかし文教祖が世界からもらった賞があります。
ノーベル賞の対極にある「イグノーベル賞」です。
一般には恥ずかしくて言えない賞です。
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「イグノーベル賞」とは『イグ(品が無い、あさましいの意)とノーベルを掛け合わせた造語です。賞の対象者は、「人をまず笑わせ、そして考えさせる研究。絶対に真似できない、まねすべきでない業績を対象に、本物のノーベル賞受賞者や各分野の専門家、たまたまそばを通りかかった人が選考する。授賞式は毎年、ハーバード大学の講堂で行われる』
(「もっと! イグ・ノーベル賞」ランダムハウス講談社)
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文教祖2000年イグノーベル経済学賞を受賞しました。授賞内容は

経済学賞 文鮮明師
『効率と安定成長を集団結婚産業に持ち込んだことに対して』



元信者のゆんまちゃんは文教祖がノーベル賞獲得のために国連にロビー活動を行っていた背景をこのように語っています。

『そういえば、10年ぐらい前に文ちゃんってUNにたくさんお金をばらまいて演説してましたが、信者達には「ブラジルの土地に地上天国を作るんだ。これは君達のために買ったんだ」といいながらUNの高官たちには同じ土地なのに「UNが私を受け入れたら私は持っている広大な土地をUNに寄付しよう。」と言ってました。で、教会では発表されてないとは思うんですが文ちゃんってUNだったっけ~。。。確か特別賞をもらったんですよ~。本人は、その当時本気でノーベル平和賞を目指していたんで恥ずかしくて発表できなかったと思うんですが、、、。UNもこんなに賄賂もらってるから何か賞あげなきゃと思ったんですかね~。。。。公表されてたら韓国人も日本人もみんな知ってるはずなんですが公表されてないから意外とみんな知らないんですよね。
 何の賞かっていうと「世界中でたくさん結婚式をした賞」なんです。(爆)
まあ、その時ブッシュ政権でイラク戦争しようと言う時に、他のキリスト教徒たちは平和のために戦争反対のデモ行進を行っていたのに、世界平和を唱える統一教は全然反対していなかったんですね。ブッシュ政権を押していたんで「イラク戦争賛成派」 だったんです。で、1年半ぐらいしてアメリカで戦死者が続出し、被害が増えると突然大々的に世界平和を唱えて[アベルUN]を作らないといけないといいはじめましてね~。きつねのように立ち回りが早いと妙に感心したもんです~。その割りに、その後のアメリカの大統領選挙のときもブッシュさんを押してましたよね~。私、それで統一教辞めたんです~。まあもともと内部事情は知ってましたが、文ちゃん、世界平和なんか望んでいないと言うことをはっきり知ったんで。。。宗教上、伝道と献金のためにきれいで華やかな御言葉で飾り立ててましたが実際は全然違いますよ~。利益が絡んでもう無茶苦茶。。。内部の上の人達も無茶苦茶。。。。。』

(ゆんまちゃんのブログ(ワンパターン摂理))
http://ameblo.jp/yumma21/entry-10826303996.html


文教祖は国連からではなく、文教祖自ら創設した団体から「ノーベル平和賞」の代わりに「万国平和賞」を授賞したことで、世界に勝利ということにしました。
「まあ勝利したことにすればいいんじゃない」と、その後2001年1月13日に神様王権即位式を挙行します。

代理蕩減は意味がないと自らも言っていたのですが、文教祖は「代理蕩減」しまくってます。
代理で勝利基準が立つということは、東大受験を受験生の代わりに頭のいい学生が受けて試験に合格してもOKということと同じです。

その場で代替はできないはずです。
原理的にいうと、もし中心人物が摂理に失敗したら長い年数で「蕩減期間」が必要なのではなかったか。

文教祖は代理蕩減についてこのように語っていました。

『代理蕩減という神が決定して、そういうふうにやれという命令を持ってやらなくてはならない。そういう命令を神はしない。代理蕩減という、そういうふうになればいいけどね。先生が代理蕩減の蕩減をやらせようとすれば、こういう教会長でもやらせてたらいいじゃないの。教会長になる。代理蕩減と言えば、一つの立場に二つが立っている。そうだろう。それは何かというと、人が生まれる時、二人が生まれるという問題、死ぬ時も一緒に死ぬというんだね。そんな事あるか?
 ないんだよ。一人ずつ。だから復帰の路程においては前後関係である。背後関係は許さない。だから親が行く道、別であり、子供が行く道、別である。共には行かない。夫婦同士も同じである。これは復帰されて、神の心情を中心として祝福されて、愛の結合を成した場合には、一人が行けば追いかけて来るんだね。そうだけど、復帰過程においては許されない。わかる?(「半分ぐらいわかります」)。半分ぐらいわかる。なんで?(「時間性が」)。朝飯はね、自分のお父さんが自分の身代わりに食べてくれるか?
 それを思えば、問題じゃない。すぐ解決する。呼吸を、「ああ、お父さんちょっと待て、私が呼吸してやるよ。十分だけ待って」。できるか?』

(日本幹部へのみ言葉 1967年6月13日 東京)

要は摂理を担当している中心人物の代わりはいないということ。
「私の代わりにご飯食べておいて。食べたことにするから」「私の代わりに死んで」などというのはありえない。

中心人物はまさにその人ただ一人であって、代わりはいないということ。
聖書の中の中心人物が失敗したら、摂理も失敗し相当長い「蕩減期間」が必要なはずなのに、文教祖の時代に限っては、失敗はなかったことに。

文教祖の母親の失敗の蕩減を崔元福女史に代理蕩減させたり、ノーべル平和賞の代わりに自分が自分に賞を送ったり、都合のいいように妄想解釈した内容で神の摂理に勝利したといわれてもね~。

自ら語った原理も無視して「勝利じゃないけど、自分の教会信者の代替でまあ勝利したことにしておこう」とすることは単なる自己満足の域をでることはないでしょう。

※初回更新日 2012-07-09 14:42:03