「お母様誕生日捏造疑惑」の続きです。
■洪順愛大母様と関係のあった三人の男性のうち夫は二人、でも死んでも心変わりをしないと誓うくらい一番好きだったのは「ある青年」だった
<大母様(洪順愛)と関係があった三人の男性について>
一人目:「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間、心を変えず待っていなさい」と大母様(洪順愛)に言い残し、大母様が一生、「この人のために心変わりはしない」と決意させた男性
二人目:韓鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏
三人目:済州島に一緒に避難してきた夫(韓承運氏ではなく夫(婚約者)の鄭錫鎮氏[別名:鄭平和])
この内容はすでに記事にしましたが、今回は写真入りで説明していきたいと思います。
(過去掲載記事)
真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(8)
真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(9)
真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(10)
最近の統一教会の信者であれば、韓鶴子教祖夫人の父親は「韓承運(承雲)氏」であると思われるでしょう。ですから母親の洪順愛大母様は一度だけけしか結婚せず、韓鶴子教祖夫人を生んで純潔を守るために離婚したと思い込んでいる方もいるかも知れません。
しかし、実際には洪順愛大母様の証を読んでみると少なくとも三人の男性との関係があったようです。
特に、三人目の鄭錫鎮氏は1989年に統一教会より発行された「愛の世界」という韓鶴子教祖夫人を証する書籍の中では『洪順愛大母様の夫』として紹介されていましたが、その後『洪順愛大母様の夫=鄭錫鎮氏』の記述は改竄され出版されています。
そして『洪順愛大母様の夫=鄭錫鎮氏』だったこと事実上、統一教会史からは抹殺してしまいます。
1989年発行
『そして、済州島に行ったあと釜山に来ていた夫を呼び、鄭錫温勧士も釜山から上ってくるように言いました。多くの信徒たちが集まって、熱心に祈祷し始めたのです。そのとき私はエデンの園を築くために夫と聖別をしながら熱心に祈祷していましたが、夫はそれなら離婚しようと言って出ていってしまいました。
・・・その間、済州島に行っていた夫は、祈祷する中で「私が飲んださかずきをお前も飲まないのか」という主のみ声を聞いたそうです。それで「飲みます」と答えると、「私が飲んださかずきをあなたも飲んでみなさい」と言われ、主が十字架にくぎづけられたと同じように、十字架につけられたというのです。後で夫が十字架にくぎづけられた場所に行ってみました。かぶったいばらの冠を埋めておいた所に行ってみると、「私は天の先発隊として行く」と書かれた紙もありました。先発隊として出ていったといっても、いまだ帰って来ないのですが……。
・・・すると新しい主(金聖道夫人のこと)が現れて、「ああ、わが錫珍(済州島に行っていた夫)は婚約はしたが結婚はしていないので、どうしようか」と言いながら、足をドンドンと鳴らされるのです。それで私はまた「新しい主は不思議なおかただ。私は今素晴らしい教会を探そうとしているのに、私のためには心配されないで、錫珍だけを心配される」と思いました。』
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)
この証の中に出てくる大母様の夫の鄭錫鎮(別名:鄭平和)氏↓
鄭錫鎮氏の兄で、統一教会長老だった鄭錫天氏↓
大母様の夫の鄭錫鎮氏は、朝鮮戦争のとき大母様と韓鶴子夫人より先に北朝鮮から避難していました。夫の鄭錫鎮氏は、洪順愛大母様の所属していた聖主教の教主の息子でした。
しかし鄭錫鎮氏は同じ教会に通っていた信者の洪順愛大母様の実際に夫ではありましたが、かといって韓鶴子教祖夫人の父親ということではないようです。
統一教会で正式にお母様(韓鶴子夫人)の父親と公表したのは韓承運氏という男性です。↓
洪順愛大母様の証にこのような記述があります。
『私には弟がいて、日本に留学していたので、私の親は婿養子としてお母様の父韓氏を迎えようとしてました。ところが主体性の強い彼は、それは出来ないと出ていってしまいました。お母様がお腹にいる七ヶ月目のことでした。お母様が生まれてからも、私の親がお母様を離さなかったので、私はそのまま別れてしまったというわけなのです。』
(洪順愛大母様の証1973年12月21日 東京教会)
『私は韓氏に会ってから、二十九歳(数え年)でお母様を生みました。平安南道の安州でお母様が誕生されましたが、私はその韓氏と一緒に住まずに実家にいたのです。南下してから七年後に、統一教会に入ってお父様にお目にかかってみると、再臨主がどのような顔と姿であられるかは、以北で二回も天から教えていただいたので、すぐに分かりました。それで私は、お母様にも証しをしたのです。』
(「侍義と精誠の生涯」洪順愛大母様の証 1975年8月10日米国・ベルベディア)
お母様(韓鶴子夫人)の父親といわれている韓承運氏は洪順愛大母様は妊娠7ヶ月のとき、出て行ったといっており、その後は一緒に住んでいないということですので、北から避難してきた鄭錫鎮氏とお母様(韓鶴子夫人)出産後からの夫ということになります。
(あくまでも教会発表の教会史が正しいという前提で考えて)
鄭錫鎮氏がお母様(韓鶴子夫人)の父親という可能性はないのでしょうか?
写真が高齢になってからのものですが、どちらに似ているか見比べてみてください。
それより私はこの文夫妻ほうがよっぽど親子のように似ていると思います(血液型もB型、年齢も23歳違い)
でも、ふと気になるのは顔より血液型です。
わかっているのは、文鮮明教祖も韓鶴子夫人の同じB型ということです。
鄭錫鎮氏と韓承運氏と洪順愛大母様は血液型は何型なのでしょうか。
それからお母様(韓鶴子夫人)の父親といわれている韓承運氏はお母様(韓鶴子夫人)を懐妊した当時は、洪順愛大母様とは一緒に住んでいませんでした。
韓承運氏という人は学校の教師で、1941年から1945年まで遠く離れた地に単身赴任していました。単身赴任は1945年10月まで続いていて、故郷の安州に帰ってきたのはお母様(韓鶴子夫人)が生まれてから2年も経ってからです。それに、お母様(韓鶴子夫人)がお腹の中にいたときに離婚したとしてます。しかし一緒に住んでもいないのに、お母様(韓鶴子夫人)を妊娠しているのです。
1941年8月24日 黄海道延白郡濯糸嬰公立普通学校で教職生活(単身赴任開始)
1943年2月10日(陰1.6) 韓鶴子夫人誕生
1945年10月13日黄海道延白郡濯糸嬰公立普通学校退職(単身赴任終了)
どうやったら子供を作れるというのでしょうか。
統一教会の話によると韓承運氏と洪順愛大母様は啓示を受けて結婚し「男子を産めばメシアになる」と言われたにもかかわらず、結婚してから10年近くたって、やっと子供ができたのに、夫は単身赴任、まして七ヶ月のときに離婚。
待望のメシアの性別もわからないまま離婚するのはありえないでしょう。
夫が単身赴任(夫不在)のときにできた子供なので、お腹が目立ってきたとき自分の子でないとして離婚したとも考えられます。
しかし、洪順愛大母様の結婚したといわれる年度は、1933年というものと、1934年の二つあります。
韓承運氏と結婚したとき洪順愛大母様はまだ学生でした。
さらに新婚のはずなのに、一緒に住んでいないのです。そして、結婚しているにもかかわらず、実家に住みながら新興宗教(新イエス教・聖主教)に熱狂して、結婚生活のことや、夫のことは一言も証で述べられていません。
『そうこうしているうちにある日、新イエス教会の信徒たちと一緒に夜遅くまで話をして帰ってきたことがありました。その当時は通行禁止もなく、十二時を過ぎても歩くことができたのです。夜中の一時になって家に帰ってきました。私の父は虎のようにとても怖い人なので、父に見つからないようにそっと戸を開けて自分の部屋に入っていきました。眠ろうと思ってチマを脱ごうとしたら、「順愛よ」と呼ぶ声がしたのです。”不思議だ、一時を過ぎたのに、だれが私を呼ぶのだろうか”と思いながら、脱ごうとしていたチマを再びはいて、気が抜けたようにぼうっと立っていました。』
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)
新イエス教のあとに洪順愛大母様は聖主教に通い始めます。しかし、夫の韓承運氏は聖主教信者ではなく新イエス教信者です。
(※韓承運氏は新イエス教の熱心な信者と統一教会では紹介している)
韓承運氏とは、新イエス教に通っていたとき知り合い啓示で結婚しているはずですが、なぜか新イエス教から帰ったところは「実家」です。「夫の家」でもなく、実の父が登場します。
韓承運氏と最初から結婚などしていなかったと考えるのが自然でしょう。
韓承運氏の長男の韓偉一氏は、1995年に韓承運氏と洪順愛大母様を霊界祝福した直後、教会企業(一成レジャー産業(株)・一信石材(株))の重役(会長)に取り立てて統一教会に引き入れています。なにか取引があったのでしょう。
このことから、新イエス教信者の夫の韓承運氏が韓鶴子夫人の父親であるとすれば、1943年当時、洪順愛大母様と一緒に聖主教信者でなければ話が合いません。
しかし聖主教信者の夫は韓承運氏ではなく、聖主教教主の息子の鄭錫鎮氏[別名:鄭平和]です。
(※統一教会では説明していませんが、聖主教は新イエス教から独立して分かれた分派です)
「大母様は結婚しても夫とは一度も一緒に暮らしていないのに、お母様を妊娠した」へ続く
※初回更新日 2012-03-06 16:54:42