真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(4) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(3)」のつづきです。

■韓鶴子の出生の秘密
文先生が言っている神から始まった近親婚(父娘婚)「近親絶対理想的相対関係」の関係であるかどうかの考察です。


12.イエスからの啓示を受けたのはいつから1935年説になったのか?

1980年代ころまで、イエスから啓示を受けた時期の教会の公式発表は「1936年4月17日」でした。
しかし、現在は「1935年4月17日」に情報が統一されているようです。当初、1936年(満16歳)で啓示を受けたと言っていた内容を何故、後に1年早めて発表しなければならなくなったのでしょうか?文先生のみ言葉も「イエスからの啓示」の内容になると「16歳(数え歳)」と必ず注釈を入れるくらいです。文先生の語ったみ言葉まで改ざんすることは出来ないので、「注釈」という技法を使って情報の印象操作を図っているようにも見えます。

真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(2)の「7.文教祖の経歴詐称する必要はあったのか?」にも述べたように1935年から1945年までの経歴が過去に公開していた情報と現在公表している情報が異なっているのは、明らかにその時期に何か隠さなければいけない内容があるからではないでしょうか?

再度経歴を見てみると

※○印が正しい経歴、×印が虚偽の経歴

○ ~1934年3月 地元定州の書堂で学ぶ
○ 1934年4月1日 定州の私立五山普通学校3学年に編入(1年間修学)
○ 1935年4月?日 定州公立尋常小学校4学年(現在の中学校)に転入
△ 1935年4月17日 定州の猫頭山でイエスから啓示と教示
○ 1936年4月?日 京城商工実務学校電気科入学(現・中央大学)
× 1938年3月25日 定州公立普通学校卒業
× 1938年4月12日 京城商工実務学校電気科入学
○ 1939年3月?日 京城商工実務学校電気科卒業(現・中央大学)
 (※昭和15年 第三期卒業生)
○ 1939年3月~1941年 経歴・所在不明
× 1941年3月8日 京城商工実務学校電気科卒業
 1941年3月31日 急行「ひかり」で釜山へ
 1941年4月1日 「昌慶丸」に乗って日本留学

 *教会公式発表による文教祖の経歴と実際の経歴はあまりにも年度が異なっています。

◇定州公立普通学校(現在の中学校)
(正式経歴)1935年4月編入・1936年3月卒業
(教会発表)1935年4月編入・1938年3月卒業
※2年卒業を遅らして発表
※教会発表:1938年3月25日第29回卒業生

◇私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)
(正式経歴)1936年4月入学・1939年3月卒業
(教会発表)1938年4月入学・1941年3月卒業
※入学年度も、卒業年度も全く合っていない

◇経歴の空白期間が存在
1939年3月~1941年4月1日「昌慶丸」に乗るまでの2年間の所在が全く不明
(上記の経歴の根拠は「山口浩著「原理運動の素顔」エール出版社を元にしています)


山口浩著「原理運動の素顔」の中に『統一協会側は、何故かひた隠しにしているが、文鮮明は一九三六年から三九年まで、私立京城商工実務学校(現中央大学)に在学していたのだ。これは事実である。ひた隠しにするはずである。丁度この時期に文鮮明は、十六歳、神の啓示を受けたのだから。』とくだりがありますが、この山口氏の書いた著書が発行されたのは1975年ですので、その当時、教会では「イエスからの啓示を1936年」と発表していたようです。
しかしこの虚偽の学歴が発覚したために、その虚偽の経歴にあわせるように「イエスから啓示を受けた日付」も1年早められてしまいました。現在教会で発表される著書や講義内容は「1935年4月17日」に統制されているので、統一信者は「1935年4月17日」だと信じて疑わないでしょう。教会が文先生に関して「嘘」の情報を言うはずがないと思っていますから。

文教祖は1936年4月17日にはソウルにいるはずです。イエスから啓示を受けたのは、故郷である「定州の猫頭山」です。定州は現在の北朝鮮内にありますので、1936年当時は汽車でも容易に行き来できる距離ではありません。4月17日だとしたら、すでにソウルに上京して下宿先も決めなければいけませんし、3月末くらいからソウルで忙しく過ごしていたはずです。そんな最中に、わざわざ「故郷の定州」に戻っていたとは考えられません。イエスからの啓示は受けた本人も、受けようとして受けたものであるはずはないのですから、啓示を受けに故郷に帰るというのは絶対にあり得ないのです。


では、いつ頃まで「1936年イエス啓示」を使用していたのでしょうか?


◆1936年
「栄光の王冠」の詩を1936年16歳の時書く

◆1974年 → 「1936年啓示説使用」

1974年に高山伝道所で講義された「主の路程」(1月26日日本語訳版)
※歩みこられし主の道より
<啓示>
 1936年 9年間真理探求
 教会でのお祈りと下宿、主の涙
『大先生はイエス様の本当の復活の日を知らなかった。しかし1936年4月17日(16才)の朝、深い祈りを捧げておられる時、特別の啓示を受けられた。それは大先生の前にイエス様が現われ、「私の使命は未完成で終った。どうか、それを完遂して欲しい。」と使命を委ねて行かれた。(丁度、イエス様が12才の時に神から啓示を受けたように、イエス様を通じてメシヤであることを知らされたのである。)』


◆1978年 → 「1936年啓示説使用」

朴普煕米国議会証言集/真理は我が剣/第一回証言 下院国際機関小委員会に対する冒頭声明 1978年3月22日
文鮮明師は1936年、すなわちKCIAの創立から約25年前に神よりの啓示を受けたのです。その時が、統一教会の霊的創立であります。そして、正式には1954年5月1日、ソウルにおいて文鮮明師により登録されました。すなわち、朴大統領と金鐘泌議員が権力を握った1961年より7年も前のことであります。私自身は、1957年に教会に人教しました。1958年までに、日本教会が設立され、1959年、アメリカ教会が設立されました。』


◆1983年 → 「1936年啓示説使用」

受難の現場 統一教会受難とその真相
(昭和61(1986)年2月23日 初版発行)
1983年2月 編集者 柳光烈

第七部 韓国から世界へ

◎「一部の非難・謀略を乗り越えてわずか二十年で四百万名」
文鮮明師の統一教会は、一九五四年韓国で始まった。一・四後退の時、興南の共産監獄から解放された彼は、釜山に避難、ボムネッコル山頂にボール箱で屋根をつくり、土で固めた一部屋の家から最初の伝道を繰り広げた。十六歳の時、復活祭の日にイエスに会い、啓示を受けたのが伝道者としていで立った契機である。彼の教会は、韓国でささいな誤解によって、異端視され逼迫を受けたのち、日本へ伝播され、再び米国へ伝授された。

◎統一教会の免税裁判の判決理由(全文)一九八二年五月六日判決
統一教会の活動は、韓国の宗教が弾圧を受けた四十年日本統治下(期間:一九〇五~一九四五年)の影響で繁栄した重要なキリスト教復興運動に、その起源をもっている。このような新しくて愛国的な宗教団体が、一般的に共通な、現代版新しいメシヤ出生地としての韓国、現代版聖地としての韓国に対する主題であった。同様に、このような教理は、文牧師が創設した宗教団体を鼓舞している。統一神学は、一九三六年復活節の日、文牧師がイエス・キリストとの出会いを通して直接受けた啓示である。啓示によって解明された新約聖書の教訓に基礎をおいた『原理講論』という本は、彼の弟子たちが記録した本である。


◆1989年 → 「1936年啓示説使用」

『文鮮明師とダンベリーの真実』
 久保木修己監修 光言社 1989年発行

「私は一人の若者として、正義を求め、人々に慰めを与えたいと強く願う性格の持ち主でした。しかし、私の人生の真の転換点は、一九三六年四月十七日日曜日、復活祭(イースター)の日に訪れました。私が北韓の山腹で深い祈りをささげていたとき、イエス・キリストが私に現れたのです。それから私は九年間祈りの日々を過ごし、聖書を懸命に学びました。世俗的な時代には、私のこのような経験が洋の東西を問わず多くの人々にとって、信じ難く理解に苦しむものであることを十分承知しています。私は東京の早稲田大学で電気工学を学びました。その際、科学的、合理的な方法論を訓練されましたので、私の経験を人々が理解し難いと言っても、私には何の驚きでもないのです。さらに、多くの人々にとって啓示は、個人的体験というよりも、むしろ遠い過去の記録書に見いだされるものだということも、私には理解できます。しかし、私の経験は他の宗教の人々が経験したのと同様、生きた神との関係なのです。それは、われわれ一人一人が持つことのできるものであり、また持たねばならないものです。」

「実は韓国動乱のとき、私は北朝鮮にいました。また、日本にも一年半ほどいたことがあります。ですから日本人にも心情が通います。日本の統一教会の若い人は自分を主張することもなく献身的であり、とても為に尽くすかたがたであると思います。彼らはイエス様が言われたごとくお互いに愛し合っています。一九三六年以来の文先生の道は迫害の道であったわけですが、文先生と同じように統一教会の若い人たちは自ら進んで前線に出てイエス様の十字架を喜んで背負っています。」



→→ここから「1935年啓示説」を使用し始めています。


◆1993年 → 「1935年啓示説使用」

拉致・監禁に備えて 信仰の自由を守るために
(ファミリー1993年7月号)
 拉致・監禁による強制改宗被害者の会事務局長 鳥海豊

 1 統一教会のイースター(復活日)について

 【批判】
「文鮮明先生がイエス・キリストから啓示を受けたのは、十六歳の四月十七日のイースター(復活祭)の朝であったとしているが、一九三五年または一九三六年の四月十七日はいずれも日曜日ではない。キリスト教の復活日は毎年「春分の日」の後の「満月」が過ぎた直後に来る「日曜日」と定められている。したがって、文先生が四月十七日のイースターにイエス・キリストから啓示を受けたというのは全くのデタラメである」。

 【反論】
 (1) 十六歳という年齢から単純に計算して一九三六年という年数を記載した書物もありますが、十六歳は数えであり、正しくは満十五歳の一九三五年です

 (2) 一九三五年四月十七日は確かに日曜日ではなく水曜日です。しかし日曜日ではないからといって、必ずしも復活日ではないと断定することはできません。初代教会では、復活日を「曜日」に関係なく「日にち」を中心に祝った教会と、「曜日」に従い「日曜日」に祝った教会が存在しており、両者の間で復活日論争が起こっています。その後、ニカイア総会議(AD・三二五年)を経て「曜日」を中心に「移動的復活日制定法」が主流となっていきました。そういうわけで、既成キリスト教の復活日は毎年違う日となるのです。

 (3) 「過越の祭」はユダヤ太陰暦のニサンの月(太陽暦では三~四月に当たる)の十四日(満月の夜)に行われており、イエス様の「復活日」は、この過越の祭の後の出来事であることは確かです。ところがユダヤ暦と太陽暦は異なるためその日を設定することは、復活日論争と相まってさらに困難なことなのです。(もっとハッキリ言うならば、イエスの復活した日はおろか、その年代さえも明確になっていないというのが、現在のキリスト教の実情なのです。〔参考文献〕土井正興著「イエス・キリスト」三一書房、一四四~一四八頁を参照のこと)

 (今日、我々は太陽暦を中心としていますが、キリスト教はこのユダヤ暦との兼ね合いのなかで、「春分の後(ニサンの月)の満月(十五日)の直後に来る日曜日」をあえて復活日として制定しているにすぎません。(ゆえにイースターは三月二十二日より四月二十五日までの間のうちのいずれかの日となるのです)。

 (4) 共観福音書によれば、イエス様は過越の祭の日に「最後の晩餐」を行っていることが分かります(ただし、ヨハネ伝はその前日)。主の晩餐と十字架とは別の日と推定されますので、したがって十字架にかかった日は十五日であり、それから三日目の復活日は十七日であったと考えられます。これはあくまでもユダヤ暦に基づいた推測ではありますが、もしイエス様が霊的に現れて啓示するならば、「復活はニサンの月(四月)の十七日である」と語られるということは十分に考えられることです。

 (5) 事実、「四月十七日が復活した日である」とイエス様が文先生に語られたことを根拠として、統一教会ではこの日が復活日であると信じています。

 以上のような見地から、既成キリスト教会が祝う復活祭とは異なっているのです。(参考文献、韓国版『統一教会史』一九七八年十月十四日出版)



◆1995年 → 「1935年啓示説使用」

「聖地定州」武田吉郎著 光言社 1995年発行

聖地定州 第4章 神の召命
神から召命を受けた翌年(一九三六年)、文少年は定州普通学校の五学年に進級しました。」


◆2007年 → 「1935年啓示説使用」

「双合十勝日」三周年記念式典の御言
(2007年5月5日韓国・天正宮博物館)

「三月十七日、四月十七日、五月十七日、三か月です。本格的な出発です。韓国から、日本と米国と太平洋圏を超えるのです。最後の闘いです。(中略)宗教を通して、思想を通してではありません。直接先生を通して先頭に立つのです。先生が十六歳(数え年)で新しく出発したのも、人間始祖が十六歳で堕落したからです。(中略)家庭時代、氏族時代、八段階の世界を超えていけません。それは、先生が超えていくのです。先生が十六歳を中心として、国のすべての希望も、家庭の希望も、兄弟の希望もなく、父母も信じることができない中で、独り闘ってきたのです。そのような位置に立って祈祷したのが、今、皆さんに伝えた「栄光の王冠」です。その時の祈祷です。わたしだけ残ったのです。一人しかいません。そのような責任を中心として、すべてのことが先生に懸かっています。死ぬか生きるかという問題が懸かっているのです。」


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これを見ると明らかに3万双の祝福あたりが境目のように見えます。1989年に発行した久保木会長の著書には「啓示は1936年に受けた」と書いてあるのに、1990年代に入ってから、1935年説を唱えだしています。私は80年代に復帰されていますが私の記憶では「16歳でイエスに出会った」と講義を受けた記憶があります。

何の意図を持って、重要な啓示を受けた日付まで変更しなければならなかったのでしょうか?文教祖もイエスから啓示を受けて、これから行くみ旨の道の覚悟を決めるという意味を込めて「栄光の王冠」を書いたと言っています。

1978年文教祖がアメリカで裁判を受けた時の証言内容は「1936年16歳啓示説」を採用しています。アメリカ(西洋)は数え年という概念がありませんから、当然「満16歳」で証言しているのは当然でしょう。

そうすると、教会発表の学歴は「虚偽」の可能性が高そうです。

どうしても韓国での1941年までの経歴を学校に通っていたということで、その期間を埋めなければならなかったのでしょうか?

または、イエスから啓示など受けていないのでしょうか?

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(5)」に続く