実は今『発達障害』は『神経発達症』という名称に改められています。
とはいえ、SNSで気軽に誰しもが投稿できる現代では『神経発達症』と書く人なんて極少数でありまして、今後もしばらくは『発達障害』で表現されるでしょう。
ということで今後も私は『発達障害』と書き続けます。
とまぁ、前置きはこれくらいにして本題へ。
私はASD(自閉スペクトラム症)といわれる発達障害者でして、一昔前なら『アスペルガー症候群』といわれたものでした。
SNSを見ると、ADHDやLDの人たちが生きづらさを吐露してる様が溢れています。
そりゃそうなんですよね。
なんせ一見健常者のくせに脳に障害があって、健常者が当たり前にやれることができないのですから。
日本社会なんて『付和雷同』『右向け右』『同調圧力』『集団主義』が大好きなので、それに適合できない人は非難されたり仲間外れにされるのが当たり前ですよね。
大人になれば“働く”というイベントが待ち構えており、そのために幼い頃から教育を受けているとも言えますよね。
しかし発達障害者は就労が困難であり、継続なんてできりゃしない。
就労したらしたで周りの人たちからは煙たがられイジメられる話もよく聞きますし、私の場合は仕事がなんとかできるようになっても、周りの人たちの価値観に耐えられませんでした。
だって周りの人たちは
「彼女(彼氏)と〜〜に行った」
「子どもと遊んだ」
「〜〜へ行って楽しかった」など。
働いても、働く以外のプライベートな時間を充実させる体力や気力なんて残ってないのです。
「働いても、自分は幸せになれない。」
というのを痛感しました。
仕事がバリバリできて仕事が充実していればまだ救いはあったかもしれない。しかし仕事に食らいつくだけで性も根も尽き果てる思いまでしてるのに。虚無感や脱力感…自分の存在価値を見出だせない…
これって障害者が働くということでは語られない重要な話かと思います。
障害者支援なんて「とりあえず障害者を働かせよう」というだけで、その環境下で晒される価値観への耐性なんて考えられてない。
働けば働くだけ(仕事自体はこなすことできても)辛くなる。
ホント苦痛ですよ。
というわけで“働く”という行為は、単に“働く”のみあらず。
これを40歳まで働き続け、二次障害が残りました。
今は無職で毎日気ままに生活してますが、ふとしたときに記憶に苦しめられて生活が地獄と化すこともあります。(複雑性PTSDやら乖離性障害やら…)
というわけで、もし私が未成年に戻れたら“働かない”ための情報を全力で収集していたでしょうね。
働いて金を稼いでも特に使う用途はないし、不可逆な代償として心身の健康が損なわれていく…
一体、発達障害者が働くことのメリットってなんでしょうか?私にとっては、何にもありゃしなかった。
障害者手帳の取得や障害年金の受給、生活保護やらなにからなにまで調べ尽くし活用していく。それらの支援を受けずとも、今の時代にはニートたちも逞しく生きていて、どこかのシェアハウスで暮らして月々の固定費を安くして暮らしていたりするのでネット社会は素晴らしい。
私が幼い頃に受けてきた教育の価値観なんて今の時代にはまったく通用しないし、逆に「脳の成長を妨げる精神論やらで害悪じゃね?」としか思わない。
根性や忍耐とかスパルタ教育とかに毎日ビクビクしながら生きてたなぁ…
今の時代なら「虐待」「ハラスメント」とか言われるものが教育者の機嫌で正当化もされていた時代だから、私の心には社会への恨みつらみが蓄積されていくのでした。。。