世界を共有できないのは寂しい | 自閉症の山奥中年ニートのゆるい暮らし。ときどき投資。

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山奥のシェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。

10月17日(火)朝

 

天気が良い。

 

ついさっき豪ドル円のチャートを見たらちょうど美しい形で急騰してたので、経験則的に「このロット数なら少ないくらいだろう」という数量で即買いエントリー。

ろくに水平ラインとか引いてもいなくて、よくチャートを分析していなかったが、エントリー後1分も経たないうちに陽線がびょ〜んと長かったので「もういいや。戻し来る前に売ろう」と思い、10pipsくらいで利確して6,000円ほど。ラッキースケベ的な感覚の利益だろう。

 

 

さて、私は日々誰とも話さないで生きている。話す人がいるなら、コンビニ店員さんやファストフードの店員さんくらいで「どうも」とか、それくらい。

 

明らかに社会人してたときより発声に必要な器官の衰えを感じる。声帯が狂っているのか発声できない音域も出てきた。「人間は不必要なものはなくなるようにできているんだな」と思う。

 

よくASD人は他人との交流を好まないとはいわれるが、だからといって寂しくないというのは話しが別だ。私は常に寂しさがある。これは生きてきて他人と深く感覚を共有できた経験がないことや、関わろうとしたけど自分のキャパが耐えられないとか、世間一般の喜びや楽しみが自分にとっては特に何にも感じないとか。

 

「俺はオカシイのかな?」

 

昔、周りに合わせて全然「イエェ〜〜〜!!!」って気分になれないのに「イエェ〜〜〜!!!」って擬態したら気持ちがあとに付いてくるかなと思って陽キャのフリをしていたこともあったんだけど、やっぱり無理だった。無理していた自分は苦しかったし、周りもそんな俺を見て痛々しさを感じたに違いない。

 

あれこれ“健常者(定型発達者)”として振る舞い続けたけど限界。いくら社会生活を営む上でのマナーや礼儀を知識や経験を蓄えようと、それを感覚で理解する機能が欠落しているから、教科書にない場面が訪れたら、どうしていいか分からない。混乱する。何とか行動しなきゃってときは、周りから顰蹙を買う行動をしてしまうことも度々あり。自己嫌悪になるだけだった。

 

冠婚葬祭みたいな場面なんて今後は家族ぐらいのに参加するだけだろうし、もうこんな小さいキャパに必要以上の負荷を脳に与えたくないから、社会からは距離を置きたいのである。

 

なんでASD脳を有して生まれたかは知らないが、ASD人として生まれた以上はどうしようもない。周りから責められても、知ったこっちゃない。そもそも俺ですら好きでこうして生きてるわけじゃないし。よく分からない森羅万象を創造した神様のせいにしておこう。

 

寂しいぜ。