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 コーチ的立場にある人より、今時の口うるさい保護者が読むべき本という感じ。2005年5月初版。

 

【コーチの気性】
 フィッツがどんな記録を残そうが、べつにどうでもいい。ぼくらが何より驚いたのは、フィッツの気性の激しさだった。
 フィッツが高校生のころ、チームが負けると、送迎バスに乗るのをことわって、歩いて家まで帰ったという。なんと捕手が防具をつけたまま、ニューオーリンズの端っこにある球場から、反対側にある自宅まで歩いたのだそうだ。(p.28)
 似たような話が下記に記述されている。
   《参照》   『みんなの声がきこえる』 羽中田昌 四谷ラウンド
            【「もういい、おまんとうは宿舎まで走って帰れ」】

 ところで、フィッツの気性の激しさは、自分自身への厳しさへ向かうと同時に、他人に対しても怒りという形で容易に表出されていたらしい。
 このような気性を有する人は誤解を生みやすいだろう。

 

 

【絹のパンツ】
「マイケル・ルイスがどこにいたか教えてやろう。スキーをやっていやがったんだ!」
 1976年当時、ニューオーリンズに住む15歳はめったにスキーなどしなかった。つまり、1976年にニューオーリンズの野球場で、「あいつはスキーに行った」と暴露されるのは、凶悪犯ばかりいる刑務所で「あいつは絹のパンツをはいているぞ!」とばらされるようなものだった。
 ふつうなら論理だてて長々と訴えるような内容を、フィッツはほんのわずかな言葉に凝縮した。
 特権におぼれる人間はろくでなしだ。
 そういう人間は、お金の力でどうにかなることばかりにかまけて、立場上必要なことをないがしろにする。いつだってリゾート気分。親のお金でスキーをやって、人生なんて楽勝だと思い込む。困難にぶつかったら、お金で誰か雇って対処させればいい。汗水たらす価値のあるものなど、この世には存在しないと考える。(p.50-52)
 お金を払っている側(保護者)の意見がまかり通るようになると、大抵のコーチは志を曲げて、保護者の意に妥協したり諂ったりするのだろうけれど、フィッツは違うどころか、それを逆手にとってしまう。
 大抵の成り金の親たちや上層階級の親たちは、労せず優雅な生活ができることが成功者の証であり人生の目的であると思っているのだろう。自分自身が経験してきた過程の辛さこそが大切だったことを、すっかり忘れているか、理解していない。それに浮かれている親たちは、自らの愚かさを自覚することもなく、モンスター・ペアレントとなって、厳しいコーチを責めたりするのである。
   《参照》   『強育論』 宮本哲也 (ディスカヴァー)
            【子供を育てるということは生き方を伝授するということ】

 

 

【“肝心なこと”】
 フィッツが手に持つ一枚の紙に、真意をずばりと言い表すことばが書いてあった。その紙をコピーして、次のミーティングのとき選手に配るらしい。書かれているのは、メジャーリーグの名称ルー・ピネラのことばだった。
「自分の弱さを直視できるだけの強さがない者は、たくましい戦士にはなれない」
 人生には、あきらめるための安易な言いわけがいくらでも転がっている。そのすべてに打ち勝って、自分の道を切り開いて進む姿勢の大切さ。それがフィッツの言う“肝心なこと”なのだ。(p.57)
 体力って意思力の根源だから、スポーツを通じて、フィッツの言う“肝心なこと”を学ぶのは、本当に後々役立つだろう。
 しかしながら、日本人って、自立の大切さを自覚しないまま、生きることが出来てしまう民族ではないのかと思う事がある。親の肩書きや経済力に依存したり、状況に依存したままで、自力で状況を変えて生きることを学んでいない気がする。「自ら計らわず」みたいな。
 確かに、それは、いくつかの条件が整った社会状況下にあるなら、優れた方法の一つではあるけれど、現在の日本の社会状況は、欧米化されてしまっているから、自力的自立の生き方を意識の中に持っていないと、本当に成果のない人生になってしまうように思っている。
 その意味で、フィッツのいう“肝心なこと”は、スポーツをしない人々であっても、何らかの方法で学んでおく必要があるのだろう。
 下記も、勉学において子どもを自立させるための一手法である。
   《参照》   『強育論』 宮本哲也 (ディスカヴァー)
             【自立】

 

 

【親の言いなりになる必要はない】
「親の気持ちも理解できる。『学費を1万4千ドルも払っているんだから、うちの子も試合に出してやってくれ』と言いたいのはよくわかる。
 しかし、とんでもない。プレーをする権利は、お前たちが自力でつかめ!
 おれにだって両親がいた。両親のことは大好きだった。けれど、うちの親父はスポーツをあまり知らなくて、ときどき、おれの立場を理解できなかった。そういう場合には、親の言いなりになる必要はない。ここぞというといには、男らしく立ち上がって、『ぼくはこういうふうにしたい。こういうやりかたを選ぶ』ときっぱり主張しろ。
 最近、親に対してそんな態度をとったやつは、この中にいるか?
 いないだろう。おまえたちは、楽しけりゃそれでいいと思っている。だが、世の中、楽しいことだらけと思ったら大間違いだ。つとめを果たさなきゃいけない日もある」(p.94-95)
 チャンちゃんは高校生のとき、父親に面と向かって逆らったことがある。「なんでもかんでも自分の思う通りになると思っているのか」というような言い方だったと記憶している。父親は、特にひどい父親だったのではない。世間一般の常識的な人間だった。ただ、その常識が、鼻についたのである。特に学校の教員(公務員)というのは、ごく自然に社会意識の権化として生きることが普通なのである。チャンちゃんは、その社会意識という常識に対して、たいそうな不愉快かつ不自由を感じていた。魂の自由に対して、たいそうな抑圧の元になっていたのである。
    《参照》   『アセンションの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド)  《前編》
              【社会意識(コントロール・グリッド)という檻から出る】

 抑圧をはねのけるために、親に逆らって自己主張はしたけれど、フィッツのようなコーチに出会って、生き方を学んでいたのではないから、今でも何かをやり遂げるでもなく、お気楽なプ―太郎な日々を過ごしているというだけである。
 この様な生き方は、社会意識という視点で見れば、「実に愚かな敗北者の人生」ということになるのだろうけれど、チャンちゃん自身はそうは思っていない。社会状況が悪化している現在にあっては、案外、チャンちゃんのような自由な生き方を「羨ましい」と言う人がいたりもするけれど、それもふさわしい評価とは言えない。
 ところで、実は、フィッツの生き方指南も、必ずしも正しいとは言えないように思っているのである。
 フィッツの言う“肝心なこと”を演繹すれば、「あなたのコーチは、自分自身である」ということになるだろう。「自分で自分を運ぶ(コーチする)」のである。
  《参照》   『なでしこ力』 佐々木則夫 (講談社) 《後編》
            【コーチと選手】

 ところが、運んだ地点が、成功や達成のみを評価する社会意識に則しているべきだと思っているなら、それこそが落とし穴である。目的地点を定めるにあたって、何を基準にするのかということなのである。
 運命とは、自分の命を運ぶことなのだから、運んだ先がどこであろうと、成功だとか失敗だとかの二元論的な評価に縛られているのなら意味がない。結果にこだわるのは、今を生きずに、存在の次元が異なる未来に囚われ、なおかつ外部にある社会意識に囚われて生きている証拠である。

 

 

<了>