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 考える力を育ててゆけば、人生を強く生き切る子供になれるよ、という主旨の教育論。

 

 

【しっかりした子は、やばいよ・・・】
 だいたい、初対面の大人に対して子どもが身構えるのは当然であって、最初のあいさつはぎこちないのがふつうです。親に後頭部を押さえつけられながら、照れたような困ったような顔でおじぎをさせられている子のほうがまともなのです(男の子は特に)。(p.22)
 これは自覚があるから良く分かる。小学生の頃 “いい子すぎた” チャンちゃんは、高校生になってからその反動が出たのである。モップは押すものでも引くものでもなく担ぐものですと言いながら、清掃見回り中の先生の前でズ~~~トそれを実演し続けていた。ファナティックは楽しい・・・と思いながら。そんな楽しみすらない時は、さっさとバックレていた。
 幼少の頃から、初対面でいきなり 「ば~~~か」 とかって言う子の方が、はるかに健全に育つことだろう。

 

 

【ゆとり教育は、ゆとり返済と同じ】
 「ゆとり」 という言葉に反感を覚える人はいないでしょうが、実態は 「なまけの教育」 「堕落の教育」 です。
 ゆとり返済という住宅ローンのシステムがあります。 ・・・(中略)・・・ 。
 こんなシステムを考える方も考える方なら、飛びつく方も飛びつくほうです。最初の5年間では、元本はほとんど減らず、金利を払っているだけです。(p.28)
 適確な比喩である。「金利を払っているだけ」、という状態は、「無能力状態でいいよ」 と言っているのと同じで、「元本返済」 つまり 「能力の獲得」 を先送りしているだけのことである。
しかし致命的なのは、教育は時を失ってしまえば取り戻せないことである。

 

 

【ひたむきな赤ちゃん と 本来の教育】
 (赤ちゃんは)ひたむきに食べ、ひたむきに眠り、ひたむきに遊び、ひたむきに学ぶ。そこには 「ゆとり」 などという生ぬるい言葉の入る余地など全くないのです。
 教育とは厳格なものです、受ける側も施す側も襟を正し、背筋を伸ばして真摯な気持ちで臨まねばなりません。昔の寺子屋をイメージしてみてください、ピリピリと張り詰めた緊張感の中で、真剣にものを考える。問題を解く、文章を書く。先生の説明は一言一句聞き漏らさないように全身を耳にする。「わかんな~い!」 「つまんな~い!」 なんて誰も言わないし、言える雰囲気ではない。
 これが本来の教育の場でしょう(私の教室がそうです)。 (p.31)
 著者の学校では、小学校の3年生から、入学を受け入れている。
 教室に通いはじめて間もないG君が、質問をもってきたとき、
 私は冷ややかにその子の顔をながめ、「この教室は質問禁止なんだ。わからない問題はやるな」 と言ってG君を追い払いました。 ・・・(中略)・・・ 背中が淋しそうでしたが放置しました。(p.163)
 目的は自立である。

 

 

【自立】
 自立に関しては小三の初日から求めます。
「今からものずごく難しい問題を10分でやってもらう。その問題が解けたヤツは今までにひとりしかいない。でも、解けるか解けないかはどうでもいい。10分間、頭を使いつづけることができるかどうかだけを見る。途中であきらめるヤツは来週から来なくていい」
 この初日の一問目を途中で投げ出した子は今までにひとりもいませんし、この緊張感を4年間持続させれば、スタート時のレベルに関係なく、伸びるのです。(p.40-41)
 「大切なのは、考え続ける訓練であり、その習慣である」 ということ。
 教育における自立とは、そういうことなのであろう。
 一般的に呑み込みの早い子は、考える習慣を必要としないから、伸び悩むことになるという。この傾向はよくわかる。どんくさい子の方が、知的な能力は大いに伸びるのである。
人生に大切なのは 「運・鈍・根」 と言うけれど、鈍くさい子であっても根気のある子は、必ず優れた知性を持てる。鋭敏であっても根気のない子は、行き着くところ平凡ある。考え続ける力がないから。
 考え続けるという能力を養うために、著者は 『合格パズル』 (東京出版) を世に出しているらしい。

 

 

【子供を育てるということは生き方を伝授するということ】
 最近、あることに気付きました。(p.78)
 社会的に成功者している父親は、生きることの大変さも努力の大切さ尊さも知っているのに、そういう自分と似たタイプの女性を選んでいないということ。そして、そのような女性はエスカレーター式に大学を出て、何かに必死に立ち向かったこともないまま、子育てをしているということ。
 子供を育てるということは生き方を伝授するということです。親に守られ、夫に守られ、ひとりで生きたことのない人がいったい子どもに何を伝授しようというのでしょうか? (p.78)
 チャンちゃんの母親は 「負けるが勝ち」 と言って私を育てた。
 子どもの教育には父親の関与が必要不可欠です。(p.78)
 チャンちゃんの父親は生き方についても勉強についても何も言ったことなどなかった。
 父親が “強育” をしなければならないのに、それをせず、母親が “弱育” や “狂育” をして、「不登校」 や 「ひきこもり」 や 「おちこぼれ」 を生産しておいて、原因を社会や教師のせいにする。
 つまり、父性不在による母性過多が、日本の教育を歪めている根本ということになる。
   《参照》   『なぜ勉強するのか?』 鈴木光司 (ソフトバンク新書)
            【もともと母性的な日本社会】

 

 

【効率的で無駄のない学習法】
 「効率的で無駄のない学習法」 なんて存在しません。各自が思考錯誤の末、自分なりの学習法を見つけるしかないのです。 (p.112-113)
 こう書かれているけれど、底辺として著者が傾注しているのは、
 私の授業の目的は子どもに頭を使わせることにあります。問題が解けるかはどうでもいいのです。頭を使い続ければ必ず頭がよくなります。元のレベルがどれだけ低くても関係ありません。(p.123-124)
 考える習慣のない人は 「この考え方、逆じゃないの?」 と思ってしまうことだろう。

 

 

【生きるための学力】
 子どもに学習させる目的は何ですか?
 「いい学校に入れるため」
 大間違いです。
 「高い学力を身につけさせるため!」 が正解です。
 この場合の学力とは、人が人として生きていくために必要不可欠な力で、それが身につくのであれば、 入試に合格するのは行きがけのお駄賃のようなものです。
  ・・・(中略)・・・ 。この順番を間違えてはいけません。(p.150)
 順番を間違えていなければ、5月病なんかにはならないはずである。ましてや、仮にひきこもったとしても、頭までひきこもってしまうような完璧なひきこもりにはならないはずである。

 

 

【熱血教師から冷血教師へ】
 私は熱血教師で、実績も伴っていましたが、「もっとほかにいいやり方があるのではないか?」 という疑問を持ち続けていました。
 そして、現在の冷血教師にいたるのです。授業の延長はやりませんし、質問もいっさいうけつけません。宿題も出しません。親が 「先生! なんとかしてください!」 と泣きついてきても 「知りません。落ちていくのも人生でしょう」 ととり合いません。でも、このやり方がもっとも効果的で、問題がないのです。
 私の教室は無試験先着順ですが、最初のうちはどんなにできが悪くても、頭を使うことさえ放棄しなければ最後には何とかなっています。放ったらかしがいちばんだと今では確信をもっています。(p.169)
 依頼心や依存心を断つ。
 ほったらかして自立させる。
 自分で考えよ!
 自分で自分の人生を作れ! と。
 この方法を、ひきこもりに応用するならば、徹底的に援助を断つこと。
 兵糧断ちする冷血が一番である。
 
 
<了>