《前編》 より

 

【他からの評価なしでもあり得る快感】
 利他行動をとるとき、誰かからほめられなければ、大きな快感を得ることができないのでしょうか? じつは、「他者からのよい評価」は必ずしも必要ではないのです。
 人間には、自分の行動をつぶさに監視する機能を持つ内側前頭前野の働きがあります。これは、天台大師の『摩訶止観』巻八に説かれる「同生天」「同名天」の働きを思わせるような部分で、自分の行動のいちいちを記録したり評価したりするところです。
 誰かからほめられなくても、自分の内側前頭前野が自分の行動を「すばらしい!」と評価することにより、非常に大きな快感がもたらされるのです。これが、いわゆる「社会脳」と呼ばれたりする機能のひとつです。
 つまり、心の底から人々の幸福を願っての利他行動なら、たとえ誰にもほめられなくても、そんなことでは幸福感は全く揺るがないのです。見返りなど必要ないくらい、大きな快感があるのが本来の利他行動です。そして自ら進んでやろうとする利他行動こそ、最も大きく、持続的な幸福感に結びつくのです。(p.72)
 “天台大師の『摩訶止観』”という言葉が出て来るけれど、これは“天台知顗が著した「瞑想の行法」”のこと。
   《参照》   『 時宗・狂言 “日本の心” を求めて 』 高橋克彦・和泉元彌 徳間書店
             【摩訶止観】
 純然たる利他行動をしたら、自ずと心が清々しくなるのは、誰でも経験できる。
 「内側前頭前野」は、自分の行動をつぶさに監視する機能を持っているのであるなら、人知れず悪事を行った時に、自分を剋するのもここだろう。つまり、ここはカルマを統括する中枢ということになる。
 ちなみに、他者から褒められて快感を生みだすのは、「線条体」という脳内回路。こちらは「報酬系」という。目標達成によって得られる快感も「報酬系」である。ハードルは高ければ高いほど快感も強い。
 無酸素登山にトライしている 栗城史多君 などは、「線条体」を励起する「報酬系」の脳機能を使った「快」を追い求める生き方ということになる。
 肉体的にそこまで強靭ではなくても、「祈り」を用いて脳内をドーパミン漬けにしたり、善行を積むことで「内側前頭前野」を励起する「社会脳」の機能を使った「快」を追及するという生き方もある。

 

 

【絶対境】
「仏教徒は瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
 実験では、被験者の脳に「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
 興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚であることを実際に報告しています。具体的には、「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限が開けてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みます。(p.73-74)
 「自己と他者の境界がなくなる」という境地は、言い換えるなら、相対性の次元から上昇して、絶対性の世界に参入できたときの境地と言ってもいい。
 ジョージ・カヴァシラス等のアセンション系動画内で、このような感覚はしばしば語られている。

 

 

【対話こそ、脳を育てる最高の「刺激」】
 なぜなら、人は他者とのつきあいにおいて、言語情報よりも口調や声のトーン、表情などの「非言語コミュニケーション」からたくさんの情報を得ているからです。(p.79-80)
 メラビアンの法則によると、言語情報が占める割合はわずかに7%。
    《参照》   『70倍自動化営業法』 田原祐子 (中経出版)
              【第一印象をよくする「3つのポイント」】
 視覚情報や聴覚情報が、残りの93%を占めているのだから、対話によって聴覚野や視覚野は、言語野以上に強く励起されていることになる。対話は、脳の広範囲な部分を励起(刺激)していることになる。

 

 

【知的幸福感】
 それは、美味しいものを食べる時に感ずる幸福感などよりずっと深く、長く持続する幸福感なのです。・・・中略・・・。
 学びつづけ、成長しつづけ、達成をくり返すことの中にこそ、脳が感じる幸福感はあります。脳にとっての幸福とは静的・固定的なものではなく、変化のダイナミズムの中にあるのです。
 「もう学ばなくてもいい。成長しなくてもいい」と現状に満足してしまったら、脳はそこで成長を止めてしまうどころか、衰え始めてしまうのです。なぜならそれは、「知りたい・学びたい」「達成感を味わいたい」という本能に反する生き方であるからです。(p.87-88)
 チャンちゃんはタラタラと本を読み続けているけれど、幸福感なんて全然感じていない。「知りたい・学びたい」の欲求が満たされて快感だったのは、学生の頃の読書までである。
 読書を続けているのは、1週間読書をさぼると、脳が流れ出てしまうというか完全に腑抜けになってゆく感じがあって、それが恐ろしいからである。知的幸福感に代替できる幸福感は、他にいくらでもあるだろう。乗り換えられる快感があるなら、今すぐにでも読書なんてやめられる。
 知的幸福感をもたらす神経系がどこなのか書かれていないけれど、多分、前頭連合野内のA10神経だろう。
   《参照》   『いい女は、セックスしない』 石崎正浩  なあぷる
              【人間を人間たらしめるもの】

 

 

【菩薩道という完成形】
 法華経を最高の経典として讃えた日蓮は、仏という存在を固定的にはとらえず、菩薩道を行じつづけていく凡夫の姿の中に仏があると説いています。
 この話は、脳科学的な見方からも納得できる話です。(p.91)
 【知的幸福感】の書き出しの中に、「脳にとっての幸福とは静的・固定的なものではなく、変化のダイナミズムの中にあるのです。」とあるけれど、このことを言っている。
 「成仏=仏になる」というゴールがあって、そこにたどりついたらもう菩薩行をしなくてもよいというなら、それ以後は脳にとってなんの刺激もない、退屈な状態に苦しみ続けなければならなくなってしまいます。幸福感は感じられず、脳もどんどん衰えていってしまうでしょう。・・・中略・・・。
 真の仏とは、・・・中略・・・、衆生を救うために次ぎから次へと困難に立ち向かい、利他の行動を生涯最後の日までつづける存在なのです。脳の仕組みから見ても、これこそが最高の生き方、脳が喜ぶ生き方だと思います。(p.91)
 神道を学び始めた頃、「信仰心とは継続である」という一文を耳にしたことがあったのだけれど、このことを意味していたのだろう。
 「生涯、利他の行動を続けるなんて嫌!」と思う人は、畢竟するに“神の道”(仏教的表現では菩薩道)を行ずる生き方は相応しくない。その場合は、「御利益がある間だけの信仰人」として宗教を短期利用して生きればいい。輪廻の選択権も残されているのだから。
    《参照》   『禁断の日本超古代史』 宗川日法  グリーンアローブックス
              【世界人類に和合をはたす日嗣の心】

 

 

【幸福を定める配慮範囲】
 人間は「配慮範囲(自分が責任を持つ範囲)」が広ければ広いほど、幸福な人生を送っているのです。逆に、「自分一人だけで生きていけばいい」と思っている人は、配慮範囲が最小となり幸福を感じられる機会もごく少なくなるでしょう。(p.113)
 「配慮範囲」が広いと、「人を育む幸福」と「利他の幸福」を味わえる機会が多いからという理由。
 配慮範囲の広狭は、必ずしも社会的な地位や肩書に比例するわけではない。利己的な人はあらゆる地位や肩書に存在する。凡夫であっても、名前を知り得た人々を拾い集めれば、「祈り」によって配慮範囲に取り込むことができる。
 「その人の幸せを心から祈れる相手」が増えれば増えるほど、私たちの「自己」の範囲は拡大され、その分だけ脳が幸福を感じる機会も多くなります。
 利己の幸福から利他の幸福へ。安穏を求める静的な幸福から、困難に挑戦しつづける動的な幸福へ ――。脳科学の最先端は、こらからの時代に相応しい新しい幸福のありかを指し示しているのです。(p.119)
 この本には、「愛」という言葉が使われていないけれど、「その人の幸せを心から祈れる相手」がどれだけいるかは、その人の愛のレベルによるのだろう。自己愛に生きている人は、自分さえよければいい。家族愛に活きている人は家族だけ守って、他の家族の幸せはあまり関係ない。でも、この順番で一挙に人類愛にまで拡張してしまうと、個々の人に対する愛がかなり希薄になってしまう。だとしてもゼロではないのだからその密度を高めることは可能だろう。その訓練をしていると、おのずと有償の愛から無償の愛へと遷移しているのかもしれない。
 アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)が励起されて聖なる愛のレベルにある人なら、人類全体を深く遍く愛することができるのだろう。この地球上において、そういう人々の数が閾値を超えれば、社会全体が一挙に進化(アセンション)を達成するだろう。
   《参照》  『脳を活かす生活術』 茂木健一郎 (PHP)
              【愛という滑油】

 

 

    ※ 脳に関する著作の多い著者の読書記録。

 

 

    《参照》   茂木健一郎著の読書記録       苫米地英人著の読書記録
            黒川伊保子著の読書記録       七田眞著の読書記録
            佐藤富雄著の読書記録
 
<了>