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 インターネットに書いてきたコラム を編集した著作だという。日本とは違う国で育ってきた人だからこそ出てくる発想が、日本人に角度の違った気づきをもたらしてくれる。2007年4月初版。

 

 

【「いじめ」が自殺につながらないための処方箋】
 このテーマは、一番反響が大きかったらしい。
 岐阜の少女が残した遺書に、“すべての大人たち”に対して重要なメッセージが残っていました。それは遺書の最後にあった「もう、何もかも、がんばることに疲れました」の一言です。・・・中略・・・。
 こどものいじめは中国の学校にも、米国の学校にもあります。しかし、中国や米国の子供たちがいじめに遭い、自らの幼い命を絶ったという例を僕は聞いたことがありません。でも、日本では起きている。それは、なぜなのでしょうか。亡くなった岐阜の少女の遺書が答えています。日本は過剰に「頑張ること」を強いるからです。(p.13)
 今年、大阪の高校生が部活の教師の暴力に耐えられず自殺したのも、「頑張る」という日本社会の基本的な洗脳によって起こっていたと考えることができるだろう。
 学校に行き、お友達と仲良くすることは至上命題であり、嫌な相手がいても、部活が自分に合わなくても、大人から「ともかく、がんばってきなさい」と声をかけられる。
「頑張る」は聞こえがいいのですが、僕にしてみれば要は「我慢する」ことです。教育は本来その子の個性を見いだし、それに合った環境を提供し、その才覚を伸ばすことにあります。孟子のお母さんは、3回も住居を引越して子供に合う環境を見つけたのです。 (p.14)
 ここで、「孟母三遷の教え」が出てきて、ちょっと当惑というか、納得とは言いかねる気分になってしまった。しかし、この後に記述されている宋さんの幼少期の中国の実体験を読んで、なるほど、と思った次第。

 

 

【文化大革命という「いじめ」から、「逃げる」という積極的な選択】
 中国で文化大革命が起きたとき、僕はちょうで少年時代でした。先祖が商売をしていたというそれだけの理由で、資本主義に染まった家族の一員であるとして、僕は周囲の友だちから差別を受けました。国の奨励の下で行われた、まさにいじめでした。先生も正々堂々と、このいじめに加担しました。(p.16)
 今思えば父は、家族を守るために必死になって努力していました。誰も頼る人も、たいした情報もないのに、5人の子供を連れてあちらこちらへと逃げたものです。愛情と汗を注いで築いた家や土地を捨てて、ともかく家族を守るために逃げました。父の必死の「逃げる」努力がなければ、今の僕らの兄弟姉妹はなかったと言っても過言ではありません。(p.21)
 家族を守るために家や土地を捨ててまで逃げるというのは、凄い決断であるし、それに伴う両親の将来的な苦労は並大抵のものではない。
 日本で同じことが起こっていたら、迫害された家族はどうしたのだろう。「持ち家」は、生涯に一度の最大の買い物と言われるほど家一軒がバカ高い日本では、土地や家を捨てて家族で移住なんて発想は、両親の頭の中にはコレッポッチモないだろう。「家を買うために両親は頑張ってきたのだから、子供もここで頑張りなさい」というに決まっている。

 

 

【「頑張れという精神論」】
 「子供が弱いから自殺した」という主旨の意見がありましたが、僕は同意できません。子供を守るのは、大人の責任であり、義務です。弱い子供にも強くなるように時間をかけて教えていくのが、大人の責務です。頑張れと言う精神論だけでは、子供を守り抜くことはできません。(p.22)
 このような記述を読んでも、当事者以外の普通の日本人はやはり「頑張れという精神論」に安住してしまうんじゃないだろうか。
 チャンちゃんは、下記リンクなどいろんな本に書かれている記述を通じて文化大革命という苛烈な時代状況を知っているつもりなので、著者の主張の根源となっている体験の重さは良く分かっているつもり。
    《参照》   『胡弓よ、わが思いを語れ』 楊興新 (ソニー・マガジンズ)
              【文化大革命時代】

 また、普通の日本人とは発想の起点が違った著者の他のビジネス書も読んでいるので、それらの記述を読んで、「自分自身の思考の重心を、ずらさなといけないな」と相対的に思うことができる(読書の目的とはまさにコレである)。
 日本人はついつい「一生懸命」とか「一所懸命」と言ってしまう。「一生、一カ所で懸命に生きる」ことが大切であるかのように思ってしまう。しかし、これはグローバル化した現代という時代状況に合っていない面が多々ある。著者の場合は、資本主義を完全否定した文革の時代から、拝金資本主義へと180度方向を変えた中国という国を直に見ている。時代の変化、時の推移に関しても、凡庸な日本人より遥かに敏感である。

 

 

【逃げる効果】
 極論ですが、嫌な組織が存続し続ける最大の理由は、その組織の構成員がそこから逃げないからです。構成員が逃げ出せば、間違いを犯している組織はなくなるのです。(p.22)
 極論ではなく正論だろう。
 全ての組織が、善なる存在意義を持っているなんてことは、断じてあり得ない。
 一生懸命や一所懸命を尊ぶ気風の日本人は、努力を向ける先を選ぼうとしない。
 長所と短所は裏表である。
 一生懸命や一所懸命を長所としてだけでなく、短所の面をも考えるべきなのである。
 長短は時の変化に応じて、逆転することも勿論あり得る。
 このような思考を経ることなく、日本文化を全肯定するだけなら、たぶん、日本は壊死するだろう。

 

 

【靖国神社の「就遊館」】
 靖国神社の「就遊館」を実際に見学してびっくりしました。軍艦マーチが流れる中、戦車、大砲、潜水艦などの武器と共に各戦争の背景、経過を詳細に解説しています。戦時ニュースも流しています。戦士の勇敢さを讃える、おびただしい量の証拠品と写真を展示しています。神風特攻隊と人間魚雷の解説は、特に力が入っています。
 殺人の機械と血が付いた軍服の横に「軍神」、「***を屠る」との新聞記事を陳列し、政治的な戦争解説を加えるところは、とても宗教の場所としてふさわしいとは思えません。とにかく僕はすっかり戦争関連の陳列物の迫力に圧倒されてしまい、とても死者の霊を慰めるような気分になれませんでした。
 良いか悪いかではなく、直接この目で見た直感として「就遊館」は紛れもなく戦争博物館です。これはおそらく僕だけではなく、ほとんどの見学者の直観と通じると思います。ご覧になったことのない方は、ぜひ一度ご自分の目でお確かめください。(p.103)
 日中間で靖国問題が持ち上がるたびに、「戦没者の慰霊施設がなぜ悪い」とか、「A級先般を祀っているから、いないから」というような議論になるのだけれど、中国側の主張にも、日本側の主張にも、このような「就遊館」に関する具体的な言及があったという記憶がない。
 「就遊館」に入ったことがないので、この記述に正直なところビックリしている。鎮魂や慰霊の意図を超えたものであるならまったく感心しない。
 世界のために「日本を守る」ことは主張するけれど、日本は戦争を勝ち抜いて守るという国柄ではない。日本は、「戦わずして勝つ」、もっと言えば「無為にして化す」働きによって「日本を守り、世界を守る」役割の国である。
 「無為にして化す」ということについては下記リンク。
   《参照》   『解決策』 三休禅師 (たちばな出版)
              【道の奥には何が・・・】

 

 

【危機を克服した経験】
 病気がプラスに働くのは、人間だけではありません。会社組織も病を患います。無責任、慢心傲慢、コスト意識の欠如などは、組織が頻繁にかかる病の代表です。リーダーシップ不在、債務超過、違法行為などは致命的な病です。・・・中略・・・。
 トヨタ自動車の張富士夫会長にトヨタの強さの源泉を尋ねたことがあります。張会長の口からはカンバン方式とかカイゼンという言葉は一言も発せられず、その代わりにこうおっしゃいました。
「トヨタは一度潰れた会社ですから」
 危機を克服したことのない会社の潜在的なリスクは、実は高いのかもしれません。 (p.87)
 危機を克服できず潰れてしまう会社は、マクロな観点では、劣ったものが潰れるという自浄作用で正当なことなのだけれど、テンコモリの債務超過を抱えていながら、のうのうと税金を食いつぶしている地方行政はどうしたものか。危機を克服した経験がないどころか、危機という自覚がテンデないのである。
 ときどきテレビであっちこっちの市議会の様子を見てみるけれど、議員の質問も、役所側の答弁もまるで上っ面の冠話ばかりで嘲笑する気にもなれない。そもそも質問側も答弁側も死んだ魚のような目をしている。誰も本気で頭を使って真剣に考えてなどいない証拠である。まさに痴呆行政の末期状態。
    《参照》   『船井幸雄がいままで口にできなかった真実』 船井幸雄 (徳間書店) 《前編》
              【国家・市町村の財政破綻を未然に防ぐ方法】
 
 

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