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 東南アジア(香港、シンガポール、マレーシア)とインドを旅した過程が描かれている。若者らしい口語で綴られている。最近、女性の旅ものばかり読んでいるけれど、女性の方が表現力があって面白いからかもしれない。2000年11月初版。

 

【「あ、休みが取れる!」】
 旅は、恋に似ていると思う。
 20歳のとき初めて海外への一人旅に出て、私は旅に恋してしまったのだ。・・・中略・・・。
私の場合、旅立ちはいつも唐突だ。「あ、休みが取れる!」と思った途端、旅行代理店へと向かい、とにかく一番早く出発できる格安航空券をゲットする。どこに行くかを決めていることもあれば、空いている飛行機の便で行き先を決めてしまうこともある。(p.17)
 20年ほど前までは、空港にいるのなんてビジネスマンか高齢の団体旅行者くらいだったけれど、近年は、年齢性別ともほぼバラバラである。航空運賃がだいぶ安くなったこともあり、著者のように「時間が取れたから」という理由で海外に出かけてゆく若者たちが多くなっている。

 

 

【旅はカンフル剤】
 旅は『自分が生きている』ことをリアルの実感できる、極上のカンフル剤と言えるだろう。
そんなこんなで旅先では、普段よりもちょっと緊張していて、ちょっと興奮状態にあるから、いろんな感覚が敏感になる。全身の毛孔が全開になり、鈍っていた五感が再生されていくような快感、とでも言えばいいだろうか。(p.19-20)
 初めて海外に行った時は、誰だって不安感も期待感も最大値であるがゆえに五感は際立って鋭敏になっているはずである。この本には、著者にとって初めての旅と、次のインドへの旅が綴られている。
 私が人に旅をお勧めする最大の理由は、ひとり旅に出たことで、「自分自身を受け入れられるようになったから」につきます。旅に出るまでの私は、自分というものに自信が持てず、人と自分を比べてばかりいて、どうにもこうにも情けない人間だったのです。(p.19-20)
 著者にとっては、海外一人旅をしてきたお兄さんの変貌ぶりが良き鑑になっていたらしい。
 それにしても、デカイ字で『一番』と書かれたTシャツを着ていったというから、著者は潜在的破天荒症だったのかもしれない。こういう人だから、海外でたくさんの友人ができてしまうのだろうと想像しやすい。実際にそのような顛末が、明るい文章で綴られているので、瞬く間に面白く読み終えてしまった。

 

 

【動いていることが大事なんだ】
 学校の授業では、世界地図を見ながらあーだこーだと教えられるのがあんなに退屈だったというのに、今、国境ひとつでこんなにも胸をときめかせている自分がここにいる。
 あぁ、なんか「動く」のってスゴい! この旅に出たことも、こうやってバスに揺られていることも、すべては私が動いたことから始まったんだ。人との出会いだって、動くことから始まる。・・・中略・・・ジーッとしていたって何も始まらないし、何も変わりはしない。心を動かす、体を動かす、なんでもいい。とにかくいつも、動いていることが大事なんだ。(p.90-91)
 そう、立ち止まっていたら何も変わらない。
 平凡な日常であっても、マンネリを避けてどんなことでも常に変えてみるようにしないと、強烈につまらない人生になってしまう。

 

 

【「あなたから愛を受けとりました」】
 私が「『ありがとう』はマレー語でなんて言うの?」と尋ねると、彼は紙にマレー語を書きながら丁寧に説明してくれた。
「マレー語のありがとうは“トゥリマ・カン”って言うんだ。“トゥリマ”が受けるを意味していて“カン”は愛という意味なんだよ」
「ありがとうが“愛を受ける”かぁ。いい言葉だね。えーと、どうもトゥリマ・カン」
 私がさっそくマレー語でお礼を言うと、彼は笑顔になって白い歯をのぞかせた。(p.95)
 へぇ~。
 こんな意味の「ありがとう」って、他の言語にあるのだろうか?

 

 

【旅って・・・】
「オレも東欧でいろいろ名所を見たけど、やっぱり人が一番面白いよな」
「ホント、旅って、どこに行くかより、どんな人に、出会えるかだよね」
 私もそう答えつつ、彼と偶然マラッカで出会って、こうやって食事をしていることに、出会いの面白さを感じずにはいられなかった。(p.104)
 観光地を見たいだけなら、旅行会社が企画するツアーに参加すればいい。
 一人旅を欲する人々の目的は、明らかに観光以外のところにある。
 下記はインド門前で豆をむいていた豆屋のオヤジさんと。
「オヤジさんは、どうして私に話しかけたの?」
 彼は豆をむく手を止め、私の目を見て言った。
「あんたが、なんていうか、話したそうな顔をしていたからさ」
 胸がドキンとしてしまった。確かに私は、誰かと話がしたいと思っていたからだ。
「どうしてそんなことが分かったの!?」
 私は驚いて言った。
「そんなことくらい、お前さんの顔を見ればわかるさ」 (p.317)
 誰とも話さぬひとり旅を本気で欲している人がいるとすれば、追憶の旅をしている人だけだろう。
 それ以外は、出会った人の笑顔や心に触れて「愛が必要」という当たり前のことを自覚するか、あえて孤独を深めることでそれを自白(自覚)するまで自分を追い詰める道すがらの人なのである。
    《参照》   『深夜特急 第3便 飛光よ、飛光よ』 沢木耕太郎 (新潮社) 《前編》
              【老人と旅人】

 

 

【ババ抜き】
 帰る道々、私は財布の中をのぞいて、「あっ!!」と大声を出してしまった。
「あのクソオヤジぃ~!」
 私は穴が開いてボロボロになっているお札をふたりに見せた。
「うわー、これはまたひどいねぇ」とスズさんが言う。
「オレも昨日、やられちゃったよー」
 リュウくんも、自分の財布から穴の開いたお札を取りだして苦笑いした。
 そう、インドではなぜかボロ札が使えないのだ。仕方がないから次に買い物をするときにボロ札を混ぜてこっそり使おうとするのだが、店のオヤジにバレるとすぐにつっ返されるし、運良く気づかれなければシメたもので、店を出てからガッツポーズになる。まるでインド中でババぬき大会でもやっているような感じで、買い物ひとつするにもスリル満点なのだ。(p.261-262)
 これからインドへ行く人は、ババを抜かないように知っておいた方がいい。
 穴だらけのこ汚いお札って、記念に持ち帰っても気持ちよくないしね。

 

 

【インドモード】
 インドで出会う旅人は、日本人に限らず、人なつっこい人が多くて気楽だ。みんな気軽に声を掛け合い、すぐにタメぐちで話せる仲になる。なんというか、お互い「この人もインドを知ってしまった人なんだ」という共通点を相手に感じているとでもいおうか。人はある程度の日数をインドで過ごすと、頭のチャンネルがインドモードに切り替わって、おおざっぱでくだけた感じになってくる。インドで培ったその独特の雰囲気が、旅人同士を互いに“同志”のような気持ちにさせてくれるのかもしれない。(p.260)
 インドモードは、あくせくしない悠長な時間感覚によるところが大きいけれど、同時に、その地域に対して責任を負うことがない長期滞在者の精神を強く饐えさせる危険性をはらんでいる。
 インドには確かに、もう何年も日本に帰っていない感じの旅行者が多かった。帰らないと言うよりむしろ、今さら帰っても日本では生きていけないモードの人になってしまっている、とでも言おうか。私は彼らの姿がうらやましくもあり、反面恐ろしくもあった。だからこそ私は、日本に帰って一度は就職してみようという気になったのだ。(p.310-311)
 色の濃いインドモードにドップリ染まってしまうと、微妙な色彩の日本の色を再び染め付けることはできなくなってしまう。
 著者の場合は、就職以前の学生だったのだから、日本のビジネス社会にあきらめを感じている「外こもり」とは精神的な出発点が違っている。長居をしなかったのは正解だろう。
     《参照》   『日本を降りる若者たち』 下川裕治  講談社現代新書
              【外こもりのメンタル】

 

 

【旅人】
 私は、そのことを忘れずにいる人が好きです。実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人は皆、私と同じ「旅人」だと思っています。そして、私は精神が「旅人」の人としか、本当の友だちにはなれないような気さえしています。(p.332)
 一期一会の精神を持って生きている人なら「旅人」です、と言っている。出会えた人、ひとりひとりに、心から“トゥリマ・カン”って言いながら別れを惜しむ気持らしい。普通にはここまでなれないものだけれど、著者の場合は、そのような本当の別れを経験しているから、こうまで言えるんだろう。
 著者の愛に満ちた気持ちは行間からよく伝わってくるから、読者として最後に、“トゥリマ・カン”。

 

 

<了>