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 あんまり興味の湧かないタイトルだけれど、シュタイナーの著作なので読んでみた。読み終わっても読書記録を書きたいと思わなかったけれど、書かない日が続くと空転してしまうからと思いつつ無理やり始めたら、ついついだらだらと長ったらしいのを書いてしまった。

 

 

【精神科学】
 副題に 「日常生活の中の精神科学」 とあるけれど、それに関して、訳者のはしがきに書かれていること。
 精神科学というのは、心理学のようにプシュケー(こころ)の研究にとどまらず、プネウマ(霊性)までを探求の対象とする科学のことです。その探求を、宗教のように信仰を前提とせずに、自然科学的な思考方法でおこなおうというのです。漠然とした神秘主義的感覚よりも、厳密な科学的態度を、シュタイナーは尊重していました。(p.7)
 チャンちゃんが密教に興味を持っていた学生時代からシュタイナーを読んでいたのは、まさにこのプネウマ(霊性)までを探求の対象としていたからだった。密教を経験した過程で体験的に言えるのは、「霊性を除外して語る精神なんて、殆ど無意味に等しい」 ということである。

 

 

【4つの構成要素】
 シュタイナーは人間を、「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」 という4つの 「構成要素」 からできている存在だ、と考えていました。
「エーテル体」 は 「生命体」 とも言われます。肉体を生かしている 「生命実質」 のことです。「アストラル体」 は 「思い」、すなわち「感受・情動・思念」 の場となる 「こころ」 という実体のことです。
 ・・・(中略)・・・ 。主観的な 「こころ」 の深みにある 「たましい」 が 「自我」 だ、と考えればよいと思います。(p.12)

 

   《参照》   『はじめてのシュタイナー』  志賀くにみつ 小学館スクウェア
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【4つの気質】
 「自我」 が他の構成要素を支配すると、胆汁質が現われます。「アストラル体」 が他の構成要素を支配すると、多血質の人間になります。「エーテル体」 が支配的だと、粘液質になります。「肉体」 が支配的だと、憂鬱質になります。永遠のものと無常なものが混ざり合って、構成要素間のさまざまな関係が現われるのです。(p.48)
 似たような用語からクレッチマーの性格分類を思い出してしまうけれど、シュタイナーは4つの構成要素に対応させて気質を4つに分類している。整理すると、以下のようになる。
 魂  ― 自我       ― 胆汁質 ― 血液循環
 心  ― アストラル体  ― 多血質 ― 神経系統
 生命 ― エーテル体  ― 粘液質 ― 腺組織
 物質 ― 肉体       ― 憂鬱質 ― 肉体
 ただし、10歳以下の子供の場合は、この対応関係が変わる (p.216) とも書かれている。

 

 

【思考の両親】
 人間は通常、自分の思考が事実に即しておらず、大部分が思考習慣の結果なのだということを知りません。 ・・・(中略)・・・ 。例えば、物質のみを見ることに慣れている人は、その思考習慣に固着するのです。
 今日では、人々の主張を導いているのは根拠ではありません。根拠の背後に、身に付けた思考習慣があり、その思考習慣が感情、感性全体に影響を及ぼします。そのような人々が根拠を述べるときは、自分の感情と感性のまえに、思考的習慣という仮面を被せています。「願望が思考の父である」 というだけではありません。「感情と思考習慣」 が 「思考の両親」 になっているのです。人間生活をよく知っている者は、人が論理的根拠によって納得することがいかに少ないかを知っています。論理的根拠よりずっと深いものが、心魂のなかで決定権を持っているのです。(p.39-40)
 こういう記述をすんなり受け入れられる人は、哲学的思考の虚妄を薄々感じていたはずである。
 日本人が哲学を生み出さなかったのは、魂の存在を認知する繊細な霊性を保っていた(シュタイナー流に言えば、4つの構成要素の連繋がよく分かっていた)からであろう。
   《参照》   『「頭がいい」とは、文脈力である。』  齋藤孝 角川書店
            【相手をやりこめるのは 「頭がいい」 ことではない】

 思考の背後に、思考習慣があり、感情があるのだけれど、感情はアストラル体という場(アストラル界)を構成するもの。

 

 

【アストラル界】
 アストラル界とは狭義の日本語でいえば霊界である。
 死後の人間のアストラル体が、まだ存在しています。アストラル体がどのような生を送るのかを明らかにするために、「人間が低次の享楽において体験するものすべてが、アストラル体に付着したままである」 と、思い描きましょう。肉体そのものは、喜びや情欲を感じません。肉体はアストラル体の道具です。アストラル体が肉体をとおして、喜びや享楽を感じるのです。 ・・・(中略)・・・ 。
 肉体を捨てたあとも、享受への烈しい欲望が残ります。 ・・・(中略)・・・ 。享受を満たす身体器官がもはやないので、燃えるような渇きを感じるのです。様々な宗教が、人間が死後に通過しなくてはならない苦しみを、火のようなものとして描き出しているのです。
 アストラル体は肉体との関連を断ち切るまで、欲界(煉獄)にとどまります。(p.169)
 欲界とどまらなければならないのに、禁を犯して人間界に行き、人体に憑依し享受の欲望を満たそうとする霊が殆どである。そういうアストラル体に憑依されると、食欲代行やエッチ代行などの人生になってしまう。
 人間の性質や病気は、このようなアストラル界の支配下にあって、様々な影響を受けているのが事実である。

 

 

【詰め込み教育の問題点】
 詰め込み教育の本質は、心魂つまり存在の最奥の核と、詰め込まれるものとの結びつきがまったくないことです。心魂は詰め込まれる内容に、関心を持てないからです。 ・・・(中略)・・・ 。
 人間にとって、頭の活動と心魂が遠く離れていること以上に悪いことは、他にありません。繊細で敏感は人だけが混乱するのではなく、まさに人間のエーテル体(生命体)の力、エネルギーそのものに影響が及ぶのです。人間の心魂と人間の活動の結びつきが少ないと、エーテル体は弱くなっていきます。興味のないものに従事すると、エーテル体は弱くなっていきます。(p.63)
 詰め込み教育の内容が心魂(「アストラル体」と「自我」)から遠く離れていると、生命力(「エーテル体」)まで弱ってしまう。
 これは、「詰め込み教育」 の問題点でもあるし、「長所伸展法」 の核心でもある。

 

 

【もの忘れを治す方法】
 安全ピンをテーブルの角に置くとします。「私はこのピンを、この角に置く。そして、ピンが置かれたテーブルの角を、イメージとして心に刻印づけよう」 と考えながら、ピンを置きます。そうして、落ち着いて立ち去ります。 ・・・(中略)・・・ 習慣のようにしばしば行うなら、もの忘れは次第になくなっていきます。
 「私はピンをここに置く」 としっかり考えて、自我を自分の行いと結び付け、さらにイメージを付け加えます。思考における明瞭なイメージ、自分の行いのイメージ表象、自分の行為を、自分の精神的 ―― 心魂的な核、つまり自我と結び付けるのです。そうすると、私たちの記憶力は根本的に鋭くなります。(p.65-66)
 この記述のポイントは、 “イメージとして心に刻印づける” ことである。
 つまり、アストラル体(イメージ)を活用して自我とエーテル体の連携を強化する、ということ。
 ものを置くときに、このように思考する習慣が付くと、それだけでエーテル体(生命体)の力が呼び出されます。 ・・・(中略)・・・ 私たちは人智学(アントロポゾフィー)をとおして、「エーテル体はある意味で記憶の担い手である」 と、学びました。(p.66)
 “生命力(エーテル体)は記憶の担い手である” といっているけれど、これは重要なポイント。
 落胆し切った経験のある人はよく分かるだろうけれど、人生を投げてしまうと、気が散ずるから、生命力が弱まり、記憶力も無くなってしまうのである。だったら、逆に、記憶力を鍛えれば、生命力は向上し、肉体も強くなり、人生が輝くのである。

 

 

【もの忘れと病気の関係】
 「人間がもの忘れをすることが少なくなると、多くの病気の発生は避けられる」 と言うと、奇妙に聞こえるでしょうが、本当のことなのです。(p.64)