10年前の古書だけれど、今日的な状況において意味のある著作である。2001年9月初版。
【彦坂青年の理論】
原子物理学の理論において先進的な発想をもった彦坂忠義という青年が東北大学にいた。
当時はまだ、東洋人に対する偏見があったのだろう。
それにしてもかなり卑劣な行為である。
《参照》 『強い日本への発想』 竹村健一・日下公人・渡部昇一 (致知出版)
【戦前の日本には、ノーベル賞級の科学者が沢山いた】
原子物理学の理論において先進的な発想をもった彦坂忠義という青年が東北大学にいた。
彦坂青年のこの発想は、 ・・・(中略)・・・ 当時の “世界の原子物理学の父”、デンマークのニースル・ボーアの考えを ―― つまり 「陽子と中性子は渾然一体となって原子核を作っている」 という権威ある理論を、真っ向から否定するものだった (p.52)
この発想は論文にまとめられ、アメリカきっての権威ある物理学会専門誌、「フィジカル・レビュー」 に送られた。
返事が来たことは来た。しかしそれは次のたった一行だけだった。
「あなたの論文を審査したが、本誌に掲載するには値しない」
嘲笑うようなボツの通告だった。(p.58)
しかし、後に、彦坂理論と同じものでノーベル賞を受賞した人物がいた。
「あなたの論文を審査したが、本誌に掲載するには値しない」
嘲笑うようなボツの通告だった。(p.58)
アメリカのマリア・ゲッパート博士と、ドイツのヨハネス・イェンゼン博士の場合。
彼らはボーアが彦坂青年を冷笑してから25年後に、あたかも世界初のように、彦坂説と同じ原子核モデルに基づいた内部構造説や機能説を発表、「画期的な原子核理論の樹立者」 として、(本家の彦坂氏はついにもらえなかったのに)この二人はそれぞれにノーベル賞に輝いたのだ。(p.63)
日本人の素晴らしい説を冷笑しておいて、その一方で自分のものとする!彼らはボーアが彦坂青年を冷笑してから25年後に、あたかも世界初のように、彦坂説と同じ原子核モデルに基づいた内部構造説や機能説を発表、「画期的な原子核理論の樹立者」 として、(本家の彦坂氏はついにもらえなかったのに)この二人はそれぞれにノーベル賞に輝いたのだ。(p.63)
当時はまだ、東洋人に対する偏見があったのだろう。
それにしてもかなり卑劣な行為である。
《参照》 『強い日本への発想』 竹村健一・日下公人・渡部昇一 (致知出版)
【戦前の日本には、ノーベル賞級の科学者が沢山いた】
【核エネルギー利用法】
しかも、もっと許せないことがある。
彼らはそのように日本の理論を受け入れながら、その最も大切な部分 ―― 陽子と中性子の間にある激烈な力を、どうやって制御し無力化するかという彦坂青年や湯川さんの悲願 ―― を受け入れようとはしなかった。(p.63)
彦坂青年や湯川さんのような日本人核物理科学者が考えていたのは、原子力エネルギーの平和利用だったのだけれど、欧米の科学者たちが考えていたのは、破壊のためのエネルギーとしてばかりだった。彼らはそのように日本の理論を受け入れながら、その最も大切な部分 ―― 陽子と中性子の間にある激烈な力を、どうやって制御し無力化するかという彦坂青年や湯川さんの悲願 ―― を受け入れようとはしなかった。(p.63)
【危険なU235ではなく、安定したU238を活かす】
ところが、
連鎖反応が、密集した(ウラン)235で起こると、235核内の全エネルギーが一瞬に引き出され、大爆発になる。しかし238は前述のとおり安定した鈍感物質。そのため連鎖反応が始まると、全原子核が、自分で反応を吸収して元の安定に戻ろうとする性質がある。
彦坂博士が目をつけたのはここだったようだ。つまり、この 「反応を吸収する力」 よりも、「反応を連続させる力」 のほうが、ほんのわずか上回るようにする。
そのように炉の構造・原料ウランの量・中性子スピードを精密に計算する。それができれば非常に長く、危険なく、安定したエネルギーを引き出せる。(p.78-79)
彦坂博士は、今から70年も前に原子力発電の元になる原子炉のことを考えていた。彦坂博士が目をつけたのはここだったようだ。つまり、この 「反応を吸収する力」 よりも、「反応を連続させる力」 のほうが、ほんのわずか上回るようにする。
そのように炉の構造・原料ウランの量・中性子スピードを精密に計算する。それができれば非常に長く、危険なく、安定したエネルギーを引き出せる。(p.78-79)
ところが、
彼ら欧米の超エリートたちは、ノーベル賞科学者もトップ政治家も、ウラン235の忌まわしい破壊力を知りながら、それを阻止しよう制御しようとは絶対考えなかった。
ひたすら235を爆発させて、できるだけ多くの人々を一度に殺すことだけを考えていた。(p.82)
ひたすら235を爆発させて、できるだけ多くの人々を一度に殺すことだけを考えていた。(p.82)
【仁科博士を中心とした理化学研究所】
仁科博士は製造可能と回答したらしい。
(仁科博士は)デンマークのボーアからは、 “東洋人の唯一の愛弟子” として遇された。世代は違うが、同じ愛弟子、ドイツ人のハイゼンベルグと並んで、 “ボーア門下の東西の2大逸材” と言われたこともあった。(p.96)
当時とすれば非常に先験的だった彦坂説を冷笑したボーアの元で、仁科芳雄博士は育っていた。しかし、第二次大戦が始まる前に帰国した仁科博士は、平和利用のために日本発の本格的な非軍事サイクロトロンの製作に没頭していたという。
だが、そんな平和志向的な日々は長くは続かなかった。帰国してから3年もたたない1941年の冬、つまり日本軍がハワイの真珠湾を急襲した直後、軍の特殊な上層部から最初の使者が、密かに仁科研究室を訪れた。(p.99)
この使者は、未来型軍事技術の天才的プロであった安田武雄中将の命令で、原爆開発の依頼に来ていた。仁科博士は製造可能と回答したらしい。
安田中将はこの回答を見て歓喜した。 ・・・(中略)・・・ 。
「その爆弾の暗号もこのさい決めよう。仁科博士のニを取って “ニ号爆弾だ” ・・・(中略)・・・ 外部には “ニ号研究” で押し通せ。仁科さんのとことうちの緊急協力で今日からかかれ。おれはこの件を東条閣下と杉山閣下に報告してくる」(p.107-108)
こうして始められていた日本の原爆開発の機密情報は、アメリカに漏れ出ていたらしい。
「その爆弾の暗号もこのさい決めよう。仁科博士のニを取って “ニ号爆弾だ” ・・・(中略)・・・ 外部には “ニ号研究” で押し通せ。仁科さんのとことうちの緊急協力で今日からかかれ。おれはこの件を東条閣下と杉山閣下に報告してくる」(p.107-108)
日本高性能ミニ原爆の恐れが急浮上、慌てて原爆関連と思われる施設へのピンポイント攻撃が追加されることになったわけだ。
このため、大戦末期の3カ月ぐらいの間に、まず東大・阪大・東北大・理研などの関連施設が、(焼夷弾ではなく精密爆弾で)次々にふっとばされた。
東京の郊外、荒川の中州に作られていた理研のトラの子、235濃縮秘密工場もふっとばされた。(p.153)
このため、大戦末期の3カ月ぐらいの間に、まず東大・阪大・東北大・理研などの関連施設が、(焼夷弾ではなく精密爆弾で)次々にふっとばされた。
東京の郊外、荒川の中州に作られていた理研のトラの子、235濃縮秘密工場もふっとばされた。(p.153)
【福島県石川町】
このほかに、福島県石川町には原料のウランに関わる施設があったという。都市部への絨毯爆撃が行われていた頃、山間部にあるその田舎町の上空にB29が飛来し、航空写真を撮り、放射線量を測定していったらしいことがあったという。
このほかに、福島県石川町には原料のウランに関わる施設があったという。都市部への絨毯爆撃が行われていた頃、山間部にあるその田舎町の上空にB29が飛来し、航空写真を撮り、放射線量を測定していったらしいことがあったという。
マッカーサー軍による日本占領が実質的に始まったのは、この9月17日からだった。
ところがである。米軍の先発特殊部隊は、武装ジープを連れて、すでに福島県の山あい深く入っていったのだ。
そして、おそらく先の航空写真のおかげで、石川町を一発で探し当て、工場や研究所や技術者たちの宿舎などから、(まさかそんなに早く来るとは思っていなかったのでまだ残っていた)、資料や鉱石のサンプルやノートの切れはしまでも、根こそぎ持ち去ってしまったのだ。(p.172)
石川町で行われていたのは、原爆開発ではなかったのである。
ところがである。米軍の先発特殊部隊は、武装ジープを連れて、すでに福島県の山あい深く入っていったのだ。
そして、おそらく先の航空写真のおかげで、石川町を一発で探し当て、工場や研究所や技術者たちの宿舎などから、(まさかそんなに早く来るとは思っていなかったのでまだ残っていた)、資料や鉱石のサンプルやノートの切れはしまでも、根こそぎ持ち去ってしまったのだ。(p.172)
「理研」 の元職員で、当時の石川町のことに詳しいその人は、「もうこのことを知る日本側の関係者は2,3人しか残っていない」 と前置きして、(電話でだが)こう話してくれた。
「あれはたしかに、日本原爆のためのウラン採掘の山でした。でも、その作業をやってるうち、トリウムのことも含めて、原子爆弾を制御してエネルギー源にすれば、多くの問題が解決する。石油エネルギー獲得のためでもある戦争もしなくて済む。そう考えて推進しようとする科学者・技術者が少しずつ増えましたね。
湯川さんや彦坂さんの影響もあったのかもしれないね。ただ、そういう発想は当時のアメリカには絶対分からなかったですね。
アメリカは当時、原子核のパワーを、日本人を大量に虐殺して戦争に勝利するための道具としてしか見ていなかった。だから日本人もウランやトリウムを手に入れれば、当然同じことしか考えないとアメリカは自身の心に引き比べて思った。(p.177)
しかし、実際には、平和利用目的の研究と、戦争目的の研究の両方が同時進行していた。「あれはたしかに、日本原爆のためのウラン採掘の山でした。でも、その作業をやってるうち、トリウムのことも含めて、原子爆弾を制御してエネルギー源にすれば、多くの問題が解決する。石油エネルギー獲得のためでもある戦争もしなくて済む。そう考えて推進しようとする科学者・技術者が少しずつ増えましたね。
湯川さんや彦坂さんの影響もあったのかもしれないね。ただ、そういう発想は当時のアメリカには絶対分からなかったですね。
アメリカは当時、原子核のパワーを、日本人を大量に虐殺して戦争に勝利するための道具としてしか見ていなかった。だから日本人もウランやトリウムを手に入れれば、当然同じことしか考えないとアメリカは自身の心に引き比べて思った。(p.177)
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