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 キリスト教文化圏では、男性によるDV(ドメスティック・ヴァイオレンス:家庭内暴力)の正当化が行われてきた。そんな不合理な宗教的生活文化に対して、敢然と立ち向かった家族の様子を、トーマスという少年の視点で記述している。

 

 

【神の名において殴る】
「聞くんだ、意見を言わせてくれ。夫には、妻や子供を導き、教育する務めがある。家族がいうことを聞かなかったら・・・」
「なぐるわけ?」 おばさんが甲高い声できく。
「・・・・・そのときは厳しくのぞむのだ。神がそのように定めたのだから。神はまた、女性はスカートを、男性はズボンをはくように定めている」
 ピーおばさんは、敵意をこめた顔でほほえんだ。
「ばかばかしい!」
 父さんは声高になった。「そして、神が定めたことに妻が強情に逆らうときには、夫には、必要ならば力をふるってでも従うようにする権利、いや義務があるんだ」 (p.103)
 怒りの神を起点とする宗教が、このような男性の横暴を許容する文化を生んでいたのである。
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
            【男社会と神の概念】
 下記リンクによると、このようなエホバを怒らせ男性支配の元を作ったのは、リリトという姉だったそうである。
              【地球における女性性の問題】
 この本の舞台は、1951年、戦後間もないオランダであると書かれているけれど、この本が、オランダで高い評価を受けたということは、この小説に描かれているような家庭が現在でも多いことを意味しているのだろう。

 

 

【女性原理の復活が兆す児童文学】
 このような家庭内の暴力は、キリスト教文化圏のみならず、幼長の序を定める儒教を文化に取り入れている韓国のような国で、現在も多くみられる現象である。日本でも、戦争時代の軍隊の苛烈な上限関係を経験した世代が父親であった頃は、その反動として母親に暴力をふるう人が少なからずいたことだろう。社会的安定が崩れつつある現在、父親の心理的不安定がDVとなって女性や子供に向けられている家庭も多いのである。優しい男性が大多数を占める現在のフェミニズム国家・台湾のような国以外では、具体的な現実に則して子どもたちにとって有用な児童文学として評価されるに相応しい作品なのだろう。
 この小説にあるような父親による家庭内暴力に対して、言い知れぬ怒りを心に溜め込んでいる少年達は世界中にたくさんいる。そして、この小説の主人公はトーマスという少年であるけれど、エディプス・コンプレックス的な家族間の心理をモチーフにしているような作品ではない。
 父親のDVに対して、直接に諌める言動をしているのは、ピーおばさんや、姉のマルホットや、隣に住む魔女であるファン・アーメルスフォールト夫人である。トーマスも要所で勇気ある行動をしてはいるけれど、父親に刃物を突き付けたマルホットほどではない。つまり、主人公は女性達全員という感じである。トーマスはおもに客観的な語り部としての役割に終始しているような感じの作品だった。
 この作品は、大局的に見て、地球規模で進行している女性原理の復活を推進するような作品になっているのである。
   《参照》   『魔女入門』 鏡リュウジ (柏書房)
            【魔女】
            【魔女たちが求めていたもの】
 名前からだと児童文学作家のであるオランダ人著者の性別が、チャンちゃんには分からないけれど、登場人物達の行動内容から、著者は女性なのだろうと想像してしまう。しかし、 “物語が始まる前に” という前書きを読むと男性のようでもある。家庭問題を扱った文章の記述者が男性なのか女性なのかは、解釈する上で重要なポイントになる。なのに性別が明記されていない。フース・コイヤーで検索すればいくらでもヒットするけれど、性別が明記されている記事はなかなか見つからない。
 翻訳者にとっては分かりきったことなのだろうけれど、著者の性別くらい明記しておくべきだろう。
 
 
<了>