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 41名の方がお勧めする数学書が書かれている。さながらブックレビューの集合体みたいであまり面白そうではなかったけれど、そんな中にも数学に関する興味深い事柄が一つでもあればいいやと思い読んでみた。
 仙台にいた頃、同じアパートに住んでいた理学部数学科博士課程に在籍していた小西さんにいろいろ話してもらい耳学問していたのは、大学一年生になったばかりの時。今では限られた数学関連の単語が記憶に残っている程度だけれど、それらのいくつかに再び出会えてちょっと懐かしい。

 

 

【秋葉忠利・広島市長】
 秋山武太郎先生の 『微分積分早分かり』 を買いました。・・・(中略)・・・。もうひとつの大きな理由は、中学時代、ラジオで夕方に朗読されていた湯川秀樹博士の自伝 『旅人』 の中に、秋山武太郎先生の著書がおもしろかったと述べてある記憶があったからです。
 その晩、そして次の晩、二日掛けて全部読み切りました。数学書一冊をこんなに早く読めたことも驚きでしたが、その後、そんなに早く読んだ数学書はありません。その理由は、難しい箇所にはすべて丁寧な説明がついていて 「分かった、そうなんだ。面白い」 と感じることの連続で読み進めることが出来たからです。(p.7)
 広島市長さんって数学者だった! ということにビックリしたけれど、二日で読みきれる数学書が存在するということに、もっとビックリした。
 なんたって、大学一般教養の数学書なんて、最高に、いや最低に、どうしようもなく、例えようもなく、絶望的なほど、この世に存在するものの中で圧倒的につまらないと思っていたから、かえって表紙だけはよく覚えているような代物なのである。
 例え、ノーベル賞受賞者である湯川博士からの刺激があったとしても、さらに丁寧な説明があったとしても、中身を二日で読めるような数学書があるなんて!!!
 秋葉・広島市長さんって、美しく秩序だった数学的世界をこの世に希求しながら、広島を地球美学の中心核にしようと頑張っているのかもしれない。汚濁が割り込む隙間などない数学の世界は、美を求める心に通じているものなのである。
 生来的に美を求める魂が託されているすべての人々の命を、核兵器を使用することによって抹殺することなど、断じてあってはいけない。純粋な数学者であるならば、核兵器を作り出した科学者達の魂に対して慟哭する思いの方が強いのではないだろうか。

 

 

【300錠の知的サプリ】
 その項目や人物に関するエピソードはそれほどの予備知識がなくても読めるように配慮されている。量的にも、読者をきっちり意識してあって、高校生や大学初年程度の知識でも読みきれる分量だ。(p.30)
 ということでお勧めなのが 『100人の数学者』 『数学100の定理』 『数学100の発見』 (いずれも日本評論社) の三冊である。
 これらの書籍は、専門的でなくていいから数学の世界に触れてみたいという、一般人の欲求を満たしてくれるかもしれない。

 

 

【 『博士の愛した数式』 の背景を知るのによい本】
 どこの図書館にも必ずといっていいほど置かれている、 『博士の愛した数式』 小川洋子 (新潮社) という小説に関して、
 この小説と関連して、数学者藤原雅彦氏との対談 『世にも美しい数学入門』(ちくまプリマー新書)が出版されており、本書とともに読むとこの小説のバックグラウンドもわかり面白い。(p.59)
 本当に読書が好きな図書館職員さんなら、こういった情報を書き出して、小説の最終ページに添付しておくくらいのことはするのだろうけれど、公共図書館の職員というのは単なる公務員である。仕事に向ける情熱とか教育に向ける誠実さなんて、公務員に期待するほうが間違っているのだろう。
 

 

【線形と非線形】
 一般的に、線形とは結果(変化)の予測ができる関係のことをいい、非線形とは結果(変化)の予測が不可能な関係のことと理解していれば、大抵はそれでいいはずである。つまり数式で表せるか否かなのだけれど、人によっては以下のように記述する場合もある。
 ふつうの2つの波が重なるとその高さはその2つの波の高さの和になる。これを重ね合わせの原理といい、重ね合わせの成り立つ現象を線形という。そうではない世界を非線形という。非線形現象は解析が難しく、現代の数学の大きなテーマになっている。(p.60)
 線形現象はフーリエ級数を用いて式で表すことができる。式で表せるから解析が可能である。大学時代、PCを用いて視覚的にフーリエ級数を用い、波高・波長・位相の異なる波を幾つも重ね合わせて遊んでいたことがある。現在は、PCの画面を用いれば、誰であっても、一見難しく思えるフーリエ級数のような数学が、視覚的に理解できるのである。
      《参照》  『美的のルール』 加藤ゑみ子 (DISCOVER)
               【形】

 遊びが高じて、それで卒論を書こうとしたら、フーリエ級数の微分方程式を解かねばならなくなってしまった。そんなの自分じゃあ解けないから、数学科の先生のところへ 「この微分方程式を解いてください」 と頼みに行ったことがある。それでもってPCで解を算出したのである。自分で書いていながら、分かったような分からないような卒論だった。卒論の解析プログラムに欠陥があったと今は気づいているけれど卒業してしまったからもうどうでもいい。時効である。

 

 

【 『パソコン数学博物館』 】
 『パソコン数学博物館』 何森仁・著 (東京図書) のレビュー。
 本書はワードとエクセルという標準的なソフトを、鉛筆、ハサミ、糊の代わりに使おうというとても愉快な数学書である。
 フラクタル図形やペアノ曲線などはコンピュータのおかげでずいぶん身近になったが、それでもプログラム技術をある程度身につけないと描けない、と僕は思っていた。
 ところが、本書によれば、じつに、ほんとうにワープロを高性能のハサミと糊の代わりに使って、いとも簡単にフラクタル図形が描けるのです。著者はこの電子ハサミ、電子糊を自家薬籠中のものとして、自由自在に使いこなしている。(p.91)
 数学系、工学系、土木系学科の先生は特に、この本を活用できることだろう。
 エクセルに搭載されている諸機能をある程度使っている人なら、それらを活用するだけでかなりいろいろなことが出来ることを知っている。どの系統の教科であれ、工夫次第でかなりのことが出来るのである。

 

 

【数学の全集】
 オイラーの全集の編纂作業は100年の歳月をかけてなお完成しないが、完結すれば全部で89巻になるという。他の数学者を見ても、ガウス全集は全12巻、ラグランジュ全集は全12巻、コーシー全集は全27巻、ヤコビとヴァイエルシュトラウスの全集はともに全27巻というふうで、ヨーロパの数学家の努力のおかげで、数学を創った人々の全集はよく整備されている。試みにすべてを積み重ねると気の遠くなるような高さになるが、はたしてこの古典の山脈を踏破することなく、真に数学を学んだと言いうるであろうか。(p.100)
 数学者って、全集オタク?
 「これらの古典の山脈を全部踏破しなかったら、真に数学を学んだことにならない」 なんて言ったら、該当者ゼロになっちゃうんじゃないだろうか。
 激励として言っているのだろうけれど、いかなる全集であれ、100% 「ごちそうさま」 である。

 

 

【本の読み方】
 肝腎なのは 「本に読まれる」 のではなく 「本を読む」 主体性である。ただ、「主体」 が強すぎると本は読めなくなる。ある程度 「本の言いなり」 になって 「言い分」 を聞くことも必要だ。そのバランスのとり方こそ本を読む楽しみだ。(p.34)
 これは数学書に限ったことではないだろう。
 むしろ小説ならば、本(ストーリー)の中に引き込まれてしまったほうが圧倒的に楽しめる。それはまた書き手の力量でもあるのだろうけれど、読み手の側の自我(主体)の停止は、基本的に知力の源泉であると思っている。これも一つの力量である。いや、最重要な力量といえるだろうか。
 科学書であってもなくても、学び始めの数年間は、「本の言いなり」 になって学んだほうが圧倒的に資するものが多いはずである。
 あまり本を読まない人ほど否定的な言動が見られるのは、学ばない=学べない=視野狭窄=狭小なる自我による独善、という方程式の世界に幽閉され続けているからである。本人にとっては怯懦と裏腹な自己防衛、ないし自覚なきストレス発散症状なのであろうけれど、自覚できない限りにおいて改善はしないから、周りはその無知の発露に対してダンマリを決め込むしか手がないのである。
 
<了>