《前編》 より

 

 

【太陽】
 あらゆる古代文明が、太陽を祖神と崇め、それを人がすべてのものの筆頭となり、しかも祭主を立てて祭る祭儀に成り立っていたもののいつしかその基居を離れ、月やその他の恒星、星座などを祭るようになり、さらには太陽神とは切りはなして独立した王や民族の祖先神の崇拝祭儀に移行し始めると共に衰えはじめ急速に秩序が崩壊して滅び去っています。
 太陽神を中心に祭らない祭儀祭礼それは簡単に云えば、人間が行う「自己否定の祭儀」であります。すなわち、おや(日)とひこ(日子、人)のまつり(連結、絆)が障なわれ、そのこはおやを離れたみなしご、つまり日にまつろは非(ざ)るものとなってしまった、その結果との事と言へましょう。(p.129-130)
 神道は勿論のこと太陽を中心としている。仏教の波動天体は月。仏教は日本に伝来してかなり日本化してはいるものの、本質はあくまでも月であって太陽ではない。日本に生まれながら「惟神の道」に至らぬ人々は、一体全体何故にこの世に生を受けたのか?
 密教のように大日如来を中心に据えたとしても、神道のエッセンスからは外れている。

 

 

【大日如来】
 大日如来とはその実質「夕日」です。
 落日信仰、没する日を拝むことなのです。
 夕日の光線は人体に疲れをおよぼさせ、その日の休息へ導く氣です。活き活き活性、活動の勢ひの氣は日の出から午後二時半位までのもの、しかるに精しくは「太陽神を日拝(おが)む」といふのは午前の日の正気、元気を拝むということなのです。(p.132)
 太陽とはいえ、月影恋しき夕暮れの太陽というのは、仏教の流れの中にある宿命というべきなのだろうか。
  《参照》  『もう朝だぞ!』友常貴仁(三五館
          【聖徳太子】
          【日出づる国、日本の朝】

 

 

【日拝法】
 朝ごとに5分、10分、おひさまをみつめつつ和和(にこにこ)とほほゑみながら腹式の深呼吸を続けてください。
 先づその「こころもち」を得るのです。
 とことのかしり(十言神咒)を唱える日拝法が古神道に伝わって居ります。それを調べるのもよろしいでしょう。(p.134)
 著者は、この日拝法こそが “ことたま” の秘密の鍵を手にするうえで不可欠なものであると語りつつ、この日拝法について何度も記述している。
 これを広く奨めた御方に水野南北という江戸時代のWOSA(先生)が在りました。
「日拝百日」 おのづから病ひ癒ゆとの由、進めて居られます。 ・・・(中略)・・・ 。
 実は五十(いそ)の音の神秘(くしび)「ますかがみ」についても、いつきまつり(日拝礼)なくして、その真髄を知ることはできません。いはむや「ことたま」をや。
 日の神さま、そのあらみ球である空に輝くお日さまをその御名、とことのかしりを唱えつつ目で耳で肌で、まのあたりに仰ぐ。(p.146-147)


 生命そのものの出自、それは言語以前に於いて「太陽信仰(まつり)」の祖形式に基居するものであるという事実、それを知るのが言魂を学ぶ核心であります。日拝は言魂を学ぶ事と等(ひと)つ。(p.189)
 水野南北以外でも、江戸時代の黒住宗忠などは、まさに日拝の権化的御方だった。
 現代では、七田式能力開発の七田さんも、そのカリキュラムの中に “日想観” に準ずるものを取り入れているほどである。
  《参照》  『知能と創造のサイエンス』 七田眞 日本実業出版社
            [本文②] 
「日拝法」の脳科学による理論的根拠は以下の著作に示されている。
  《参照》  『「無邪気な脳」で仕事をする』黒川保子・古森剛(ファーストプレス)《前編》
           【「無邪気な脳」を作る】~【朝日に関与する脳内ホルモン】

 

 

【自分探しをしている方も 「日拝法」 】
 自分は、この世で「何のために何をして生きるのか」。それについての「わたくしごと(存在価値、使命、個性)」が、日々お日さまを拝み見採る内にはっきりと観えて参ります。
 すなはち何をもって「わ(我、自我、個性)」の「たし(足し、充足)」事とすればよいかが日拝を続ける内に判ってくるのです。(p.178)

 

 

【今のままの教育では】
 いまのままの教育では日本人がそういったあたりまえならざる禍道に陥らぬ保証はありません。 ・・・(中略)・・・ 。我々は「まつり」という日継ぎ代継ぎごとの「いはれ」を明らかにしていないということです。
 これが教育の第一の根本であることについて認識できない方がほとんどであるといっていいでしょう。 ・・・(中略)・・・ 。現在の対日(軍事)政策は “言語変革” という長期プロジェクトに入って居ることに気づいていないというのは将に憂ふべき事です。(p.171-172)
 日継ぎの国の民は、太陽と共にあることを教育し、霊智・霊格を高めなければならないのに、やっているのは、アメリカから押し付けられた愚民化政策である。
 小中学校においては、下記の著作にあるような内容を教育すべきである。
  《参照》  『日本のこころの教育』境野勝悟(致知出版)
 早期からの英語教育についても、日本人を日本人たらしめる日本語脳を涵養させないための企みであることを看破できないでいる。
            【発音より大切なこと】

 

 

【祈り】
 祈りはいはゆる法則(のり)そのものを「のる(宣)」のがもとゐであります。
 それをいく度もいく度ものりかえす内にいつしか身も心もそのことのしらべにのりうつるという神(くし)びがあります。
 そういった唱え詞は古来からいろいろと伝わって参りました。 ・・・(中略)・・・ 。しかも神代の昔から伝はって居ります。それが古い祝詞のかずかずです。 ・・・(中略)・・・。中でも最も長く尊ばれてゐる「のりと」はやはり大祓への祝詞でありましょう。これを天津祝詞と言ひ、その中には「あまつのりとのふとのりとごと」という「ひめごと」が含まれています。(p.196-197)
 大祓祝詞(おばらいのりと)と天津祝詞(あまつのりと)は別のはずだけれど、なぜかこう書かれている。
 ところで、一般に言われている 「しきしまのみち」 として伝わる和歌を、古代日本人たちが好んで用いていたのは、まさに上述の 「のりと」 の原型を継ぐものだったからである。 「のりと」 の効力を引き出すのは “やまとことば” の “ことたま” であり、人の地位や権力によるのではない。故に古代日本では “和歌の前に平等” という認識で、庶民から天皇に至るすべての人々の和歌が集められて 『万葉集』 などが国家事業として編纂されたのである。
   《参照》   日本文化講座 ⑤ 【 言霊・天皇 】
 上述の祈りの解釈でいえば、仏教の中のマントラやダラニなども該当するけれど、それらは “やまとことば“ ではなく、サンスクリット語や支那語の音によるものだから月霊の法則である。
 もし、人が大祓詞のことたまを精しく捉まへるならば、その力たるや相当なものでありしょう。真言宗の開祖、空海さんが、これにまさる神通力はないと観採った由、漏れ伝へられてをります。(p.198)
 中国へ渡り恵果から伝法を受け真言宗第8祖となった空海であるけれど、大祓詞の呪力のみならず、日の本のとある神社の神域がもつ霊性・パワーに気づき、「高野の山を売ってでもそれらを守るように」言ったとも伝えられている。

 

 

【世界は・・・】
 人々を紛争させる事が最も金儲けになるという経済の工夫の粋は今後も変わることなく続けられましょう。 ・・・(中略)・・・ 。世界を動かしてきた力、それは「経済」という概念の精神(なかみ)そのかみ息吹きです。そして目前にその神の「いきづまり」が見えて居ります。曲がった豊かさ追求のいきどまり。あせった息づかい、浅い呼吸を地球に強いてきたのは我々人間です。もはやこれが限度でしょう欲望民主主義人(あめのますひと)らが誤道の尽き。(p.265-266)
 “あめのますひと” というのは『大祓い祝詞』の中に出てくる言葉。『大祓い祝詞』の中には太陽の働きの側面を神の名に例えて著しているところもある。
 世界は、行き詰まりつつ曲がりなりにも、今日までなんとか維持してこれたのも、少なからぬ日本人達が、『大祓い祝詞』を繰り返し繰り返し何度も何度も奏上して祈り続け、“あめのますひと“ らの犯した罪事を祓ってきたからだろう。
 地球(くに)に腹の底から息させるには先ず人間がそれをしろ示さねばならないのです。
 その心持や如何に。言うまでもなく地球の御親、太陽精神(あまつかがみ)のこころもてです。 ・・・(中略)・・・ 。人類は、太陽信仰第一(ひのもとゐ)、日神崇拝大基本(かがみのもとゐ)に戻るべき大事にやがて 「あはーっ」 と気づきます。たましひのみ祖(おや)、まさに「とほかみ」を思い出します。(p.266)
 
 

<了>