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 短く終わろうと思っていたのに、なんだか長いこと書いちゃった。

 

 

【クリエイティブ】
 イギリスのヴァージングループを立ち上げたリチャード・ブランソンはクリエイティブな人ですけれど、信義や礼儀なんて一切関係ない。自分が熱気球をやりたいからという理由で、会社を社員ごと次々と売り飛ばしました。熱気球の次は飛行機をやりたいからというので、ヴァージン・レコードを社員ごとEMIに売ってしまいました。だからブランソンを慕ってきた人は、「えっ、そんなことがあっていいの?」 という感じです。ブランソン自身は。たしかにクリエイティブかもしれない。しかし、自分の事業のことしか考えていないから、ああいうことができるのです。(p.36)
 日本人には ”一所懸命” とか “一生懸命” という言葉を尊ぶように、一つの所ないし一生をかけて継続的に懸命に生きるという精神性がある。だから、ブランソンのような人のあり様にビビッちゃうけれど、欧米人の精神性からすれば、 ”石の上にも3年” ではなく “転がる石に苔は生えない” だから、創造性はその精神性に即して発揮されてしまう。
 「略奪経済」 が社会の基盤となっている欧米の企業風土では、会社の売買について日本人ほどこだわらないから、ブランソンの人気が下がるということはないのだろう。
   《参照》   『失われたアイデンティティ』 ケン・ジョセフ (光文社) 《前編》 
            【日本航空とヴァージン・アトランティック航空】

 

 

【魂が発動しているか否か】
 何でもいいんです。たとえ不純な動機でも、魂が死んだ状態よりはいいですから。 ・・・(中略)・・・ 。
 お腹の奥を見てみたら、とにかく女、女、女、男、男、男、お腹の中を見たら金、金、金、出世、出世、出世、権力、権力、権力と。政治家であろうと官僚であろうと、普通の男であろうと、燃え尽き症候群でポワーッとして廃人みたいになっている人よりよほどいい。俳句を詠んでいる俳人ならいいけど廃人のようになっていたり、意欲をなくしてただボーッと死ぬのを待っていたり、あるいは、自殺するというよりはよほどいい。魂が発動しています。大和魂が発動しています。興味、好奇心、意欲、情熱というのは、それぞれ人によって異なりますが、やはり、強ければ強いほどいいんです。(p.44-45)
 上記の書き出しとほぼ同様なことを、別な表現で語っているものもある。
   《参照》   『こんな恋愛論もある』 深見東州 (たちばな出版)
             【没入、忘我で顕現する動中の静】
 プライドが高くて、「あいつにだけは負けたくない。絶対にいい成績を取るんだ!」 なんて思う子は、一生懸命勉強する。プライドが高くて負けん気の強い子は、一生懸命に勉強するし、どこまでもやり続けることができるのです。(p.52)
 昔の大人たちは 「コン畜生」 と言って自分自身の魂を奮い立たせている人が多かったのではないだろうか。決して上品な表現ではないけれど、日本の高度経済成長の基礎を作ってきた世代の人々はそうであったような気がする。それに比べて今日の世代は、やや上品ではあるけれど言葉も穏やかになればそれなりに負けん気の強さも失われてしまう。子供の頃、姉と喧嘩して泣いていると母親はいつも、「負けるが勝ち」 と言っていた。男の子を育てるのにそんなやりかたはないだろうと思うけれど、おかげで私は立派に負けん気とは別世界の根性無しとして育った。
 神道では荒(あらみたま)、幸魂(さちみたま)、和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)と魂を分類するけれど、現実界を生き貫く魂は、荒魂が担っている。奇魂が発達していれば神秘的なことを解し直感力が秀でているのだろうけれど、現実世界を生き貫くには荒魂が発達していなければいかんせん役には立たないのである。 荒魂 = 意欲 と言っても過言ではないだろう。大和魂は益荒男によってこそ担われる。
 この書籍は経営者向けの講演録だから、それなりの意欲の向け方、興味の作り方がいろいろ記述されている。タイトルもその中の一つとして記述されていることであるけれど、経営に携わっていない人々が読んだ場合、これらが効果的か否かは人それぞれであろう。
 意欲を持つ方法としては、人や書物に接して、その人物や著者のエネルギーに励起されることで意欲が生じることがある。人に会うことができなくても、書物を通じてエネルギーに触れることが出来る。しかし、ネガティブな波動を含んだ書物に接すると逆に引きずりおろされてしまう。
 いかにして自分自身の心を持ちあげて歩くか・・・・。本質的に、それは誰も手伝えることではない。セルフ・ヘルプの世界である。

 

 

【深く読める時】
 男はやはり社会での自己実現を求めます。だから、社会において、職場において、自己実現が十分に出来ていないときは物足りないから、一生懸命勉強できます。魂が求めているわけですけれど、そのときに読んだものが、いまの私の著作。あるいは講演をする糧になっています。
 十年間はそういう生活でしたし、浪人のときもそうでした。そして社会的に組織的に会社の中で自己実現ができて、生き甲斐を持って一生懸命仕事をしているときに読んだものは、あまり身にならない。生き甲斐がない、自己実現ができない、不遇だ、思い通りにいかないときは、むさぼるように本が読めます。
「だからキミ、いまがチャンスだ。こういうときこそ、たっぷりと勉強ができるんだよ」
 と言ったのですけど、27歳から勉強したことによって、彼の顔も前とはすいぶんと違ってきました。文字の霊というのがあるんです、本当に。 『無門関』 や 『碧眼録』 『論語』 に書かれている一文字一文字に、霊が宿っているのです。その限りにおいてはお経と同じで、ああいう古典を読むと顔が変わってきます。高貴な顔になり、頭と感性が変わってきます。
 そういう素晴らしい古典はどんなときに読めるかというと、不遇なときなんです。そういうときにしか読めないんです。人間は、浪人するか、牢屋に入るか、大きな病気をしなければ一人前にならない、と言われていますが、それはそういうことなのです。 (p.130-131)
 ここで言っている読書の対象は、一般のビジネス書やノウハウ物のような実用書でない事はいうまでもない。
 若い時に不遇な人は、心が柔らかい分、傷も深いけれどそれなりに魂深く学べるからいい。

 

 おじちゃん世代で不遇な人は、多分そんなに魂深く読めない。・・・・じゃあ、どうするの?
 若いころ古典など一切触れず、真の学問など完璧に不在で生きてきた人は、犯罪でも何でも犯して、荒魂ギンギンで逞しく生きられる。
 でも、真の学問を中途半端に学び、ビジネスのノウハウや技能も中途半端に身につけ、不善不悪、当たらず触らずで生きてきた人々は、今この終わりなき不況時代を生きるのが一番シンドイはず。
 ジョン・レノンが生きていたら歌うだろう。
「今よりずっと若かった時は、絶対に誰の助けも必要としなかった。でもそんな日々は過ぎ去り、自信が持てなくなった。今気づいたんだ、心は変わったんだよ。開けっぴろげに言うんだ。 ”Help me” 」 って。
 でもきっと、イングランドの先人であるサミュエル・スマイルズっていうオジちゃんは、遠の昔に答えを言っていた。 “ Self-help” って。
 でも、ジョンレノンはその後、 ”Help me to help myself” っていう歌も作ってる。
 
 
<了>