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 あまり刺激的な書籍ではないけれど、良い子ぶりっこして読書記録を書いておく。


【黄金律】
 アーヴィン・ラズロさんの記述の中から。
 基本原理は 「黄金律」、人にそう扱ってほしいと思うように人を扱え、である。これは普遍的ルールで、人類のほぼすべての大宗教でうたわれている。キリスト教ではイエスがこういっている、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。ユダヤ教でも同じルールが 『タルムード』 に記されている。「あなたにとって憎むべきことを隣人にしてはならない」。イスラム教においてもモハメッドの教義にこうある、「自分の願うことを他人にも願うのでなければ、人は心から信じてはくれない」。ヒンドゥー教における黄金律は簡潔にこう述べられている、「これが義務の要約だ。自分がされたら痛みを感じるようなことを他人にしてはならない」。仏教はこう助言している、「自分なら傷つくような扱いを他人にしてはならない」。儒教でも同じ、「自分にされたくないことを他人にしてはならない」。 (p.60)
 世界を良き方向へ変革しようと意気込む青年達は、世界中で語られているこのような共通する言葉に感銘を受けるのだろう。 しかし、このような言葉を心に深く銘記すべきなのは、戦争をビジネスとして容赦なく企画するような人々である。 ところが、そういう人々はおそらくこれらの言葉を嘲笑することだろう。つまり実際は、書き手の側の教養の一環として記述されて終わりなのである。

 

 

【神話は、人類の神的・霊的ルーツである】
 西園寺昌美さんの記述の中から。
 私は子どもの知的発達段階に、ぜひ神話を取り入れるべきだと思っている。幼児や子供が持っている霊的、神的な要素が忘れ去られないうちに、記憶の中に止めておくと、自分自身の内なる力を信じ、他に頼らず、自立して生きてゆくことが出来るからである。
 現代科学は、神話を迷信として根こそぎはぎ取ってしまった。科学の時代、物質文明に時代になって、我々は神話を破棄してしまったのである。だが、神話はわれわれ人類の神的、霊的ルーツである。(p.129)
 神話を文献として読んでいるだけの人文科学者からは、こういう見解はなかなか出てこない。
    《参照》   『神話がわたしたちに語ること』  カレン・アームストロング  角川書店

 

 

【見失った霊性、神性】
 霊性、神性は本来、自らが自らの叡智によって開発してゆくものである。人間は生まれた時、そして幼少期には神性、霊性を自然に発揮していた。だが、成長するにつれて、その神性や霊性を次第に見失ってしまうのである。
 本来、生きてゆく上で、霊性や神性が忘れ去られるということは、人生への情熱や生きる目的さえ薄れていってしまうことに他ならないのである。そのため、人によっては、精神が不安定になったり、抑鬱状態になったり、強迫観念に襲われたりする。(p.113)
   《参照》   『地球の回る音を聞きながら】  原水音 光文社
             【子供たちの未来のために】

 

 

【神性革命】
 21世紀、人々は伝統的な宗教からだんだんと離れてゆくことだろう。教会や寺院、ある特定の宗教団体、組織に属することなしに、自らの霊性、神性を開眼せしめることが可能になるからである。(p.112)
 著者は、五井昌久さんが主催者した白光真宏会の後継者と書かれている。五井さんは大本教の流れに属している。神道系の宗教家は、このようなオープン・マインドを持っている。神道自体がそういうものだからである。
 密教フリークだった学生時代、五井昌久さんという著者が、白光という団体の主催者であることなど一切知らなかったのであるけれど、『老子講義』 を読んで、叡智の一端がやや理解できて薄っすらとした白い光を感じていたのを思い出す。この団体に属したことはないけれど、神道的なる思想に私を導く役割を担ってくれていたように思っている。
 霊性、神性を顕現させる方法に関しては、種々さまざまな開発の道がある(p.119) として、冒頭に記載した神話に関するものなど、そのうちのいくつかが記述されている。

 

 

【ブタペスト・クラブ】
 巻末のリストには、共著者のお二人以外に、政治家のミハエル・ゴルバチョフ、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、宗教家のダライ・ラマ、作家ではアーサー・C・クラーク、チンギス・アイトマートフ といった人々の名が多数連なっている。
 ブタペストというと、栗本慎一郎さんが書いていた 『光の都市 闇の都市』 を思い出すけれど、東欧においては神的・霊的ポテンシャルの高い地域であるがゆえに、人類が進むべき方向に想いを致す人々が集まることになったのであろう。
 「惑星的意識に関する宣言」 や 「生命憲章」 が掲載されているけれど、このような公式文章ってどうしても形式的な内容になってしまうので躍動感が感じられない。ごもっともなことばかりである。
 
<了>