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 表題の作品を含む11の短編が収められている。
 本文からいきなり読み出した、真面目というか頭の固い人たちは、この短編集を 「ふざけている」 の一言で断罪してしまうのではないだろうか。
 しかし、そんな人たちも、1頁から14頁まで書かれているやや長い「前書き」と、最終ページに書かれている「著者のプロフィール」を注意深く読んでみれば、やや見方は変わるかもしれない。お笑いのプロがギャグやユーモアを書いていても不思議はないけれど、さまざまなジャンルで凄い実績のある人で、これだけサイテーな文学表現の出来る人など、そうはいない。


【前書き】
 この「前書き」を読むだけでも、この本を買うに値する内容を含んでいるとすら思ってしまった。
 著者の視野の広さ、射程の深さを物語っているこの「前書き」は、一芸に秀でた人々ですら絶句させ、浅く広くの中途半端なエピゴーネンの小生意気な意見などたわいもなく封殺するに十分だろう。
 ところで 『竜馬が行く』 などで圧倒的に人気のある司馬遼太郎に関して、著者は興味深いことを書いている。
 ところで、読む歴史小説ですが、吉川英治は、文句なく楽しめて好きですが、司馬遼太郎は、常にその歴史観に疑問を感じます。人間理解も、歪んで見えます。彼の圧倒的な筆力に人々は歪んだ歴史観を、真実だと思わせられている気がします。それだけ、作家としては優秀なのでしょう。しかし、歴史家や哲学者としては、疑問が残ります。その点、松本清張の方が上でしょう。 (p.11)
 幸か不幸か、私は司馬遼太郎の小説を一冊も読んだことがないけれども、多くの人々が司馬遼太郎を絶賛する中で、日下公人さんと渡部昇一さんのお二人が、共著の中で、司馬さんの 『この国のかたち』 という書名を指摘して、「本当に日本を愛している人物であるなら 『わが国のかたち』 になるはずだ」と、司馬さんの基本スタンスを批判していたのを覚えている。
     ■ 日下公人さん単独の書籍の中にも、「わが国」 論があった。
        『アメリカに頼らなくても大丈夫な日本へ』  日下公人  PHP
            【「わが国」】
     ■ 司馬史観を真っ向から否定する著作。
        『歴史に学ぶ智恵 時代を見通す力』  副島隆彦  PHP研究所 <後編>
            【背後で操るイギリス】

 

 

【「ある愛のかたち」】
 「わが国のかたち」 と書いたところで、「ある愛のかたち」 はやけにゴロのいいタイトルであるけれど、11編収められている短編の中の一つである。
 健一の体内から出てきたウンコとオシッコの会話で構成されている。これで愛の物語である。
うんこ 「お前は健一の血液の化身だし、健一の身体の水分を濾過したものだ。海で漂流し、何日間も飲まず食わずでも、お前を飲めば、何とか健一は生きられる。そして、朝一番のお前を飲めば、健一は強力な免疫力を持つことができる。だから、お前は女神のような存在だ。
 その点、おれは健一が食べたラーメンのカスだ。おれを食べても生き延びられない。それどころか、大腸菌のために、逆に病気になってしまう。だから、世界中のおれの仲間は、強烈に臭いんだ。これがもし、薔薇や百合のような匂いなら、または無臭なら、世界中どうなると思う?」
おしっこ 「そりゃ・・・・世界中の子供達が、喜んでバクバクたべるでしょうね」
うんこ 「子供だけじゃない。霞のかかった老人もバクバク食べるだろう。だから、おれは神命によって臭いのだ。皆が嫌だと思えるように、なるべく嫌な匂いになるよう、神が特別な匂いのブレンドをし、わざわざおれに与えたのだ。つまり、このおれの強烈でいやな匂いは、神の人類に対する愛なのだ」

おしっこ 「そこが、私が惹かれるところよ。あなたの自己犠牲を厭わぬ男らしさ、素晴らしいわ。皆の嫌われ者になっても、皆に 『おれを食うな、食べると病気になるぞ』 ということを、ありったけの臭さで表現しているのですもの。これ以上男らしい生き方はないわ。そして、皆に嫌われ、忌避されながらも、畑に撒けばあなたは最高の肥料の神様、穀物を豊かに成らせ、大地を太らせる神。その名は、埴安彦(はにやすひこ)様」」 (p.79-81)
 “朝一番のお前(おしっこ)を飲めば” !!! という記述だけで仰け反りそうになってしまう人は多いと思うけれど、エイズ対策に、自分のおしっこを飲むことを薦めていた甲府市在住の医師がいた。医学的に根拠のあることである。
 また、日本の神々の名前は “働き” という視点で現されていることを、古典(日本文化)の教養として理解しているならば、オシッコもウンチも神名を持っていることに違和感や不思議はないはずである。
 この短編集の中には、しょうもないギャグとしか思えないような記述の中に、日本神霊界の実相が何箇所も託されていたりする。なので、「馬鹿馬鹿しくって、とっても面白かった」などと、真顔でノー天気な感想に終始しているだけであるならば、読者の教養レベルとしては、かなり危険地帯にあることを暴露しているようなものである。
 うかつな感想を言うくらいなら、デッカイ雪見大福でもお口に丸ごと突っ込んで、お口と脳天、ビリビリに麻痺した阿呆にでもなっていた方がましである。

 

 
【戸渡阿見(ととあみ)】
 著者のこの作品でのペンネームであるけれど、いかなる意図が込められているのやら。
 私には、“カマトト渡世の阿弥族” というのが、一番考えやすい。
 阿弥族に関しては、下記リンクを。   
 
<了>

 

ペンネームは私が想像したようなギャグではなかった。
ギャグではなくって、マジな命名のようである。


《戸渡阿見公式サイト》 には、以下のように記述されていた。
「戸渡阿見(とと・あみ)」とは、「この世からあの世への戸を渡り、阿を見る」という意味です。「阿」とは、「天」を表す「ア」であり、「あれ」という意味でもあります。「戸渡(とと)」とは、エジプトの文章や文芸の神「トト神」を表し、「阿見」とは世阿弥、観阿弥、黙阿弥の、「アミ」を表します。 
「阿弥」とは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」から来た言葉です。「南無(なむ)」は、「帰依」の意味で俗人を表し、「陀仏(だぶつ)」は、仏の意味で出家を表します。それで、「阿弥」は、「南無」と「陀仏」にはさまれた言葉です。つまり、俗人ではなく、出家でもない。また、俗人であり出家でもある、という意味です。これは、一遍(いっぺん)上人の教えから来ています。芸道に生きる生涯を通じ、俗人でも出家でもない「阿弥」として、一生涯、境涯や魂を高め続ける宣言をする言葉なのです。
以上
深見東州・著の読書記録