《前編》 より

 

 

【地政学者マッキンダー】
 自由帝国主義者は自由貿易を、帝国の覇権の経済的基礎と考えていた。自由帝国主義者の一人である地政学者のマッキンダーが1899年ロンドンの銀行協会で行った演説だそうである。
 “チマチマとした” 製造業の競争で「ヤード単位」の争奪に明け暮れるのではなく、金融と情報の力によって、フィールドの「拠点」を押さえる狩猟採集民族的発想が、自由帝国主義の「戦略思考」であった。 (p.217)
 日本と欧米、文化的発想の違いは承知しているけれど、この発想が、地政学者によって語られていることが印象的だ。線ではなく面の発想。
 飽くことなく戦争を繰り返してきた西欧地域の地政学者の発想なのだから、「経済」が戦略的・戦術的に語られてしまうのも無理はない。ところで、日本人が作った「経済」という用語の基である「経世済民」という概念は、はたして西欧の書物を基にして出来た翻訳語なのだろうか? とてもではないけれど、翻訳語には思えない。
 

【ソンムの戦い】
 1916年6月、ヘイグは北フランス、ソンム川の北で25個師団を投入する大攻勢を決意した。・・(中略)・・。イギリスの歴史にかつてなかった戦略的無能と一体となった人命の軽視というリーダーの愚かさを示していた。
 このようにして3ヶ月にわたって繰り返された「ソンムの戦い」は、50万人になんなんとする損害を出すまで停止されることはなかった。
 キャンパスから出征していった学生の3人に1人は二度と帰らぬ人となった。オックス・ブリッジの学徒兵は貴族的なエリート意識からつねに兵士の先頭に立つ白兵突撃を操典通りに実行したためであった。つまり、もっとも優秀で、もっとも良心的な若者がもっとも多く死地に追いやられたわけである。
 この頃、若いアメリカ人としてロンドンを訪れたワルター・リップマンは、次のような言葉を残している。
 「人類の歴史上どのような帝国も、その中心に、確信に支えられて統治を担うエリートをなくして長く生きのびた例はない」 (p.244-248)
 このような、兵士の一途さと高級指揮の愚かさという組み合わせは、日本で言えば、「サイパン」や「硫黄島」なのだという。

 

 

【「3枚舌」という「解」】
 フランスとの中東分割を約した「サイクス・ピコ条約」、アラブ統一国家の独立を約した「マクマホン書簡」、そしてユダヤ人によるパレスチナ国家の建設を謳った「バルフォア宣言」と、すべて矛盾する三つの「約束」を積み上げて、イギリスは第一次大戦の終結を迎えたのである。つまり、この「3枚舌」は、十字軍以来の「中東支配の確立」と、「石油」そして、「インド」の全てを抑えることのできる、帝国としての「解」であったのである。 (p.266)
 受験の世界史では、マクマホンとバルフォアの2枚舌と教わった。3枚舌という単語は広辞苑にすらも載っていないではないか。ナポレオンばりに、こんな表現を思いついてしまう。
 「我が日本国の辞書には 『3枚舌』 という文字はない。大英帝国の解は、正に不可解である」

 

 

【カウントダウン3 : 大英帝国の破産】
 1945年5月、チャーチルは下院で、「ドイツの無条件降伏」の報を伝え、大歓声の中で対独戦の勝利を祝った。
 しかしそれは、もはや「帝国最良に日」ではなかった。帝国はすでに破産していたのである。そしてそれらの根源は、やはり、あの「1940年の夏」にあった。
 チャーチルが、バトル・オブ・ブリテンの勝利の演説をしていたとき、イギリス大蔵省とイングランド銀行は、この年の終わりまでにイギリスの外貨準備が底をつくという報告書を閣議に提出していた。 (p.294)
 バトル・オブ・ブリテンの空中戦を闘っていた「ハリケーン」や「スピットファイアー」などのイングランド戦闘機の部品の多くは外国製で、機体の大半も外国製の工作機械で作られていたという。

 

 

【カウントダウン2 : 大英帝国に引導を渡した「レンド・リース法」】
 1941年3月に成立したアメリカとの「レンド・リース法」は、大々的な対英軍需支援(食糧支援をも含む)を目的としたものであったが、これこそチャーチルにとって、「いかなる代価を払っても勝利を」という戦略の重要な支えとなるものであった。・・(中略)・・。
 しかし、「対価」は存在した。
 「レンド・リース法」の規定の中には、イギリスは同法の適用を受ける物資を用いて生産したあらゆる製品、さらには純国産であっても同法によって供与された物資と「似た」製品は、いかなるものもイギリスから輸出することを禁じる、という項目が含まれており、それを監視するためのアメリカ官吏が国内各所に常駐することが決められていた。 (p.300-301)
 これによって、イギリスは戦後、輸出再開に大きな困難を抱え込むことになった。戦前の輸出額に比べて戦後の輸出額は3分の1に低下してしまったという。「アメリカの狡猾さ、恐るべし」という感じである。

 

 

【カウントダウン1 : 「レンド・リース法」の停止 】
 日本降伏の2日後の「レンド・リース法」停止は、イギリスのおいてはいわば晴天の霹靂として受け止められた。イギリスにとっては屈辱のワシントン詣でを繰返し、アメリカの慈悲を求める以外に手立てはなかった。 (p.308)

 

 

【カウントダウン0 : 英米金融協定】
 イギリスにとって、アメリカからの平時における「レンド・リース法」の延長適用、つまり巨額の恒常的融資を請う以外に、経済の辻褄を合わせ1日1日を生きのびる方途は存在しなかった。
 アメリカの示した条件は、37億5千万ドルを2%の利子で貸し付けること。しかも、その見返りとして、大英帝国の植民地を1つの経済圏として成り立たせていた、いわゆる「帝国特恵関税」のシステムを撤廃してアメリカに門戸を開放し、ポンドの対ドル交換レートを1939年当時の4ドル3セントという法外なほどの高率に設定し、・・(中略)・・、(イギリス人は)アメリカのこの要求に怒りを爆発させた。しかし、「他に選択の余地はない」と人々は感じた。
 こうして、45年12月、全12か条からなる「英米金融協定」が調印されたが、この協定ほど、アメリカの圧倒的優位と、英米の地位の逆転を劇的に表現したものはなかった。 (p.308-309)
 アメリカにとって祖国とも言うべき英国に対して、これほど苛烈な対処をしたという事実に、アメリカの恐ろしさを感じてしまうけれど、この本には、アメリカが独立に至るまでの過程で、英国がアメリカに対してどのような締め付けをしてきたかは、必ずしも本書のテーマの範囲には入らないので記述されていない。
 英米、いずれも同じWASPの国である。その狡猾さ、非情さを、お人好し日本人は既に嫌というほど経験して知っているけれども、改めてよくよく心得ておいても無駄ではない。

 

<了>
 

  中西輝政・著の読書記録

     『アメリカの不運、日本の不幸』

     『大英帝国衰亡史』