イメージ 1

 たびたび大爆笑しながら読んでいた。読者の実年齢がどうであれ、この本を読み終わると全ての人が元気になれるだろう。
 8年前に大ヒットした本であったことは知っていたけれど、チャンちゃんは、今ごろになって、始めて読んだ。


【老人力】
 ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代わりに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」 というふうにいうのである。そうすると何だか歳をとることに積極性がでてきてなかなかいい。 (p.10)
 私はこの部分を読んで爆笑というか失笑してしまったけれど、それは違う。これも正統なボジティブ・シンキングであるのだから。

 

 

【老人力のターボ】
 「あやれやれ・・・」 となると、がぜん老人力としての色合いが濃くなってくる。老人力は頭の 「あ」 に隠されているんだろうか。よしよし、と可愛がるのはまあふつうのことだとしても、「あよしよし・・・」 となると、たんなるよしよしに老人力のターボがついて、がぜんいいかげんさが光ってくる。いいかげんさというのは、老人力の中に含まれている一つの重要な要素なのである。 (p.41)
 これ、爆笑、第2弾。

 

 

【若者と老人力】
 今の時代は、改革はともかくとして、革命信仰を持つことができない。科学信仰を持つことができない。というところで、時代そのものに有限の先が見えているわけで、そういう時代に生まれてくるのだから、今の若者は既に基礎控除のようにして、みんな一律に年の功を持っているのだ。
 だから年齢的には若いけれど、一気に趣味に走れる。ミーイズムとかマイブームという言葉はその代表だろう。本来なら現役引退の老人が口にするべき言葉である。それが若年層から湧いてくるのだ。
 だから趣味はますます堂々たる営為になってくるわけで、破産した思想の力も、その趣味の力の反射で、別の形で再生するかもしれないのである。 (p.112)
 若い頃は、過激な芸術に走っていたという著者なので、このような見解が持てるのだろう。卓見だと思って書き留めておいた。現代の若者は、最初から老人力保有者に近いところに位置しているわけである。極めて若いのに “天然ボケ” と言われている人々が多いのは、やはり必然的な社会現象なのだろう。
 それは兎も角、現在の地点から見れば、“時代そのものに有限の先がみえている”ように見えるのだけれど、未来の地点からみれば、“時代そのものに幽玄の先が見えている” 。日本人の幽玄なる秘めやかな趣味的文化が次第に世界に広まって、やがてそれがスタンダードになって行くのである。

 

 

【 「テキトー」 とは 「反努力」 】
 ここで重要なのは「テキトー」である。テキトーであることがぼくらを眠らしてくれて、物忘れを実現してくれる。そのテキトーとは何なのか。どう定義すればいいのか。
 これが難しい。定義するとは、テキトーを排除することである。だからテキトーを定義すると、テキトーではなくなる。困りましたね。
 でも定義しよう。テキトーとは反努力のことだ。 (p.142)
 テキトー、漢字で書けば、適当。殆どの日本人は、この単語の意味を、「いい加減」 の意味で用いているが、辞書には 「ほどよく当てはまること」 という意味も書かれている。しかし、老人力に関する著者の定義は、あくまでも 「反努力」 である。そう、時には若者だって 「がんばらない勇気も必要」 な時がある。いや、あってしかるべきである。
 昔は学校に行かずに働く子を可哀相だといったが、いまはむしろ働けずに学校に行っている子が可哀相だ。昔は可哀相だった売春が、いまではそれじたいがファッションになっているような時代に、一元的な努力の届く範囲は知れている。反努力を現実問題として考えないといけないんじゃないか。 (p.144)

 

 

【老人力は日本文化】
 日本的な美の感覚というか、美意識といいますか、古来より侘びとか寂とか呼ばれてきた感覚があるのだけれど、あれはじつは老人力だと気づいて、なあんだと思った。
 そうやって物体に味わいをもたらす侘び力、寂び力というのは、物体の老人力なのだった。とすると、老人力というのは日本文化だ。 (p,162)
 視覚的に印象的な歌舞伎や煌びやかな着物が、日本文化として最初に紹介されることが多いようだけれども、本当の日本文化の到達点は、著者が老人力と表現しているものに近いことは確かである。
 但し、日本文化の深層は、単に生の終わりに近い老人が見出す有限の物体にあるのではない。生と死を繋ぐ結節点としての老境が見出すべき幽玄の世界にあるのである。
            【 大和的品ある世界 ⇔ 幽玄 】
            【和様書道】
 
<了>