皆さま
子ども時代、愛されてこなかったと
信じてしまっていると、大人になっても
いろいろと影響が出てきます。
和(なごみ)くんの場合は、
どうだったのでしょう?
詳しくは本文をお読みください。
本日もよろしくお願いします。
【自己紹介】
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「畳職人、和(なごみ)の生き物語」
~②愛されなかったと信じる子ども時代~
前回のお話しはこちらです。
川で溺れてしまい、なんとか一命を
取り留めた和(なごみ)でしたが、
左目の視力を失ってしまいました。
小学生だった和は、それから
不慣れな生活が始まるのです。
学校では左目が見えないことは、
周知の事実となっていました。
それは、学校側の皆で気を使おうという
配慮でもあったのです。
しかし、実際には多くの児童から
好奇の目で見られることも
しばしばでした。
上級生からからかわれることも
あったのです。
そのことを和は、必死で我慢しました。
どんなに、言い返そうが、暴力に
訴えようが、自分の左目が返って
くるわけではないことを、和は
小さいながらに知っていたのかも
しれません。
どんなにからかわれても、不快な
あだ名をつけられても、和は、
泣き顔を見せることはなかったのです。
和の家族は、母だけがいました。
父は、和が生まれる前に病気で
死んでしまったのです。
和は実の父親の顔を見たことが
ありませんでした。
和の母はどこか口数の少ない人で、
淡々と働いて生活費を稼ぎ、少ない
時間で家事に子育てを行っている
ような人です。
和は、心の底ではそんな母に
甘えてもみたかったのですが、
忙しくしている母に、そんなことは
到底言うことはできませんでした。
そこには、どこか自分が
左目が見えないことが、
劣等感にもなっていたのです。
「愛される存在ではない」
それは、もしかしたら和の
性格なのかもしれませんが、
小学校での扱いや、たび重なる
我慢がそうさせたのかもしれません。
母は、決して和を左目の悪い人として
扱いませんでした。
自転車に乗りたいと言われれば、乗せたし
外に遊びに行きたいと言われれば、
行かせたのです。
母は、母として、和の自由にさせました。
それが、母としての愛の形だったのです。
でも、小学生の和には、そのことが
しっくりこなかったのです。
「なんで、母ちゃんは僕のことを放っておくのだろう?」
和と母の間では、そんなある意味
解釈の違いのようなものが、このとき
起きていました。
和は、学校で辛い思いをして、
忙しい母が帰ってこなくて、
寂しい思いをしていると、必ず
自宅アパートの畳の上に
仰向けになりました。
和は、なぜだか、畳の上に
仰向けになると、少しだけ
安心した気持ちが蘇ってくるのです。
和が川で溺れて一種の臨死体験で
感じた安心感、そのときも畳の上で
仰向けになっていました。
そのことが、関係しているのかも
しれません。
そんな辛いことばかりの和のように、
思えますが、畳の上に仰向けで寝る
意外に、とても楽しくて、うれしくて
ワクワクすることがひとつありました。
【続く】
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執筆依頼なども承っております。
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この物語を読んで何か一つでも
感じていただけたら嬉しく思います。
世の中が今よりも幸せな場所になっていきますよう
想いを乗せて書いています。
皆さまよろしくお願いいたします。