ゴールデンウィークは今日が最終日。
昨日、5月5日は母の命日でした。
平成15年5月5日午前5時7分、75歳で食道癌で亡くなりました。
食道癌が見つかった時は、余命3か月の末期状態でした。
それでも主治医は穏やかな顔で説明するので、「最悪の事態を説明しているのだ」と思っていました。
最初に入院した病院では、「抗がん剤で癌を小さくしておいて、最後は放射線で飛ばす」と言っていて、「治るんですか?」と主治医に聞いたら「治ります」ということだったので、その病院に入院した。
一週間もしないうちに、放射線科の医師が家族の了解もなしに母に直接「放射線を20回当てなければダメだ」と言った。
母は「病院に殺される」と言い、転院を強く申し出て別の病院に移った。
これには訳があった。
父の弟が平成14年5月に食道癌で亡くなっている。
母と同じように手遅れ状態で発見されていて、耳鼻咽喉科・内科・整形外科、検査設備のない医者へ通い、「癌ではないか」と医師に聞いたが、「こんなに元気な人が癌のはずがない」と言われていたという。
最終的に、息子が検査設備のある病院へ連れて行き「胃カメラ」で食道癌が判明した。
本人には「胃潰瘍」と嘘を言って、母と同じ病院へ入院した。
病院側からは「手術もできない、抗がん剤も効かない、期待できるのは放射線だけ」と言われ、その時点で、本人に「食道癌」と伝えた。が、20回やる予定だった「放射線治療」は途中で体力が持たなくなり中止。自宅療養に切り替えて2週間で亡くなった。
入院から、2か月余りの出来事だった。
母は、義理の妹(父の弟の妻)から毎日詳細を聞かされていた。「どうしてもっと早く見つからなかったのか…」と不思議に思っていた。
これが母が言う「病院に殺される」ということの理由だった。
放射線治療をやらなければ、もう少し生きられたのではないか…。癌の大変さを理解していなかった者の感覚だった。
この体験をしているから、母は治療を拒否した。
「もし癌が治ったとしても、再発し、また辛い治療をしなければならない、辛いのは1度だけでたくさん」というのがその理由だった。
母の癌は、大動脈を巻き込んでいたという。
前の病院のように、「手術や抗がん剤で癌を小さくして、最後に放射線を当てて…の治療はリスクが高い」と医師から説明があった。放射線を当てる位置によっては大動脈に傷がつく場合がある。大量の血液が噴水のように出て、病室を血だらけにして死んでいく…。悲惨だよ」と言われた。
病院側は、食事ができるように食道にステントを入れたが、誤嚥性肺炎の危険が出たため取り外し、次は「胃ろう」を試したが、大腸菌で炎症を起こし、これも取り外した。最後は栄養のある点滴を肩の方から入れて、体力を維持していたが、癌の転移の進行が早く、リンパ、肺、全身に転移していった。痛み止めが効かなくなり、ある時、母が突然起き出して点滴の管を抜き始め、「いつまで蛇の生殺しみたいなことをしている、早く殺せ!」と暴れ出した。すぐ鎮静剤が打たれ、個室へ移動となった。
医師から「酔っぱらった状態にしてあります。声をかければ反応します」と言われた。
それから私は病室に泊まり込みになった。
何日かして母が「苦しい」と訴えだした。簡易レントゲンで撮影したところ、癌が両方の肺に転移していて「水が溜まっている」のが原因だという。
医師が母に「苦しいのを取る薬を入れていいですか?」と確認し、点滴の中に入れたのは「麻薬」と書かれた液体だった。
それから2週間ほどして母は亡くなった。
医師に聞いたことがあった。「本当に苦しくなったときはどうするのですか?」と。
「中枢神経を麻痺させます。自力呼吸ができなくなり、知らない間に亡くなっています。」これが「麻薬」の働きだった。
末期癌発見されてから、3か月程の出来事だった。
救われたのは、もともと太っていた母はやつれもせず、少しすっきりした体で亡くなったことだった。
「棺に納められるか」心配したほどの体型だった。
昨今は「緩和ケア」というものがあって、末期癌患者も昔のような苦痛を感じないで済むような医療になっているという。
いずれにしても、癌にならない食生活、ストレスをためない日常、癌の早期発見と、自分で気を付けられることはしていかなければならない。
入院保険も大切。今の時代、通院で癌治療を行うので「入院」をさせてもらえないという。
私は、去年入院保険の見直しをして、子供たちにお金の迷惑をかけないようにした。
物価高で生活は大変だけど、その分倹約できるところは倹約している。子供のころの「物がない、お金がない生活体験」が役に立っている。