“藤田嗣治 パリからの恋文” 湯原かの子 | チャコティの副長日誌

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主役になれない人生を送るおじさんの心の日記.
猫と映画、絵画、写真、音楽、そしてF1をこよなく愛する暇人.
しばし副長の心の彷徨にお付き合いを….



著者:湯原かの子
発行:2006年03月25日
発行所:株式会社新潮社
頁数:315頁


月初は今月のカレンダーと称して
著名画家の作品を載せ、それに
まつわるエピソードを書いている.

今月の藤田嗣治の作品に関して
4番目の妻云々と書いたら、
ブロ友さんから、一体藤田は
何人の妻と?と問いがあった(笑).

答えは、5人であります.

本評論は、標題からも判るとおり、
藤田がパリから書いた恋文を
中心にその恋愛模様と、画業を
中心にした評論.

筆者は、上智大学院からパリ大
博士課程を経た著名な芸術家評伝
専門の学者さん.

ここでは、画業ではなく、藤田の
その愛の遍歴を簡単にまとめる.

1番目の妻は、鴇田とみ.

同い年、藤田が東京美術学校在籍時に
知り合い結婚.
当時とみは千葉高女を出て女子美に
入学.その後小学校教師や東金高校
の教師を務める.1911年に結婚.
1913年に藤田が先行でパリ移住.
とみを呼び寄せる予定であったが、
その後の第1次大戦が勃発、日仏の
行き来が出来ないまま、放置され、
結婚は自然解消.が、その間の
藤田からの書簡のやり取りがこの本の
主題となっている.

2番目の妻は、フェルナンド・バレー.

画家の卵、美術学校を目指していた時
藤田と知り合う.1917年に結婚.
藤田の画を画商に売り込んだり、
影と日向になり藤田を支えた.
画業にしか興味のない藤田に退屈
を覚えてきた1922年に藤田の弟子の
小柳正と浮気.藤田に知られることと
なり、離婚.

3番目の妻は、リュシー・パドゥ.

モデルで色が白く、小さくて、
通称「ユキ」と呼ばれていた.
バーでのユキの一目惚れによる出遭い.
1929年には藤田と一緒に日本へも
来ている.ユキは浪費家で金に無頓着.
藤田と共通の友人詩人ディスノスと

出来てしまい、藤田は去っていく.

4番目の妻は、マドレーヌ・ルクー.

謎多き女性.ユキの元を去って、
南米に向かった時は赤毛のロシア人
マディ・ドルマンと一緒だったはずだが、
南米、中米、北米を回って日本に着いた
時は、マドレーヌ・ルクーになっていた.
同一人物なのか、入れ替わったのか?
1933年に日本に着き、歌もダンスも
得意でラジオ出演もしたらしい.
1935年10月に単身帰仏.翌36年6月に
再来日.ところが6月29日脳血栓で
帰らぬ人に….アルコール/薬物依存で
神経衰弱状態だったとも言われ、
その死は謎に包まれている….

5番目の妻は、堀内君代.

1935年の暮れ、勤めていた日本橋の
割烹で知り合う.藤田の30歳年下.
1936年の暮れには一緒に暮らし始める.
その後の戦中、戦後の動乱を藤田と
生き抜き、1949年には供に離日し、
フランスで供に洗礼を受けた.
その後1968年藤田が81歳で
亡くなる時まで看取った.
その後も藤田の墓の面倒や移動に
携わり、2009年に日本で亡くなった.


《君代と嗣治1940年》

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2018年の雑誌「芸術新潮」に於いて
“藤田嗣治と5人の妻たち”が特集されている.



ひと言でまとめた5人の妻たち
の表現が秀逸で笑ってしまう.

1 とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛
2 フェルナンド フランスへの同化を誘った女性画家
3 ユキ 絶頂期をともにした“トロフィー・ワイフ”
4 マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ
5 君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻

これもまた、81年間の愛の変遷なのである.