2024.4.19 あしかが大藤新宿号、185系C1編成で運転〜そして最終章へ?③ | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

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『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

さて、回送を各所で撮って、いよいよ本目的へ。

埼京線の遅延には翻弄されたが、それでも発車10分少々前には新宿駅に到着できた。

ただ、今回の発車ホームは一番外れの5番線。

普通に歩いても時間がかかるため、高田馬場で南側に歩いておくなど下準備を怠らない。


…と?


行き先「足」?!


何故か文字数が足らず、珍妙な表示に噴き出す。

足は足でも、土地勘がない人だとそれが足尾なのか足立なのか…?とか。


さて、5番線には185系C1編成が既に発車準備を整えていた。


遅延により撮影可能時間は約半分になってしまったので、手早く撮影に回る。


少なくとも自分は、これまで新宿駅で緑帯の185系を撮影したことがなかった。

新宿発着の「新特急なすの」、後の「おはようとちぎ」は田町電車区持ちだったからである。

このため、手元に残る記録の数々はストライプまたは湘南ブロック色の185系だった。


まして国鉄時代は、最末期の埼京線1・2番ホーム以外、現3〜6番ホームはまだ無かった。

周辺も、貨物駅跡地はタカシマヤタイムズスクエアになるなどまだまだ変化の真っ只中である。


それもあって、自分の中では新宿駅に居る緑帯の185系は新鮮そのものであった。


時代は平成から令和に移ろい、自分と同じ思いの人は結構居ることだろう。


見方によっては、かつての上野や大宮の賑わいを偲ぶのも良かろう。

…だがそれすら偲べないほど、当時を知らない人も確実に増えてきている。

かくいう、こんな自分だってそうなのだから仕方ない。

新幹線リレー号が走り始めた1982(昭和57)年

、自分は3歳だったのだから。


そして…

前後の遅延の影響は濃く、新宿発車は10:04と1分遅れでの旅立ちとなった。

それでも、まだ1分遅れで収まってくれたから良い。

長い目で見たら、早いうちに詰めることができるだろう。


新宿を出てすぐ右手に、来年の閉館が決まったALTAが見えた。

新宿に出てくると、必ずと言っていいほど見てきた建物。

ALTAの側や、時には建物内を抜けて仕事に通っていた時期もある。


昭和から平成へとテレビ生放送バラエティの一時代を築いた“聖地”が消えるとの報。

学生くらいまでは不可避だったテレビっ子の一人として、万感の思いを抱いている。

高校の同期に付き合ってアイドルの出待ちなぞしたことはあったが、客席に見に行くという事が

ついぞ一度もないまま終わってしまったのは、少しばかり残念なことではあった。

笑点や福留氏時代のズームイン朝、スタジオパークは各々一度見に行ったことがあったが。


そして、先に撮影した高田馬場を今度は高速通過。

早々と、185系特有のMT54モーターの唸りも高くなっていく。


そして、駅頭には撮影する人が増えてきていた。

ただそれは、平日金曜日である事から目を覆うほどの惨状にはなっていない…

と思い込んでいたが、いま改めて見直すとやっぱり相変わらずである。

車内は普段よりはおとなしめではあったがね。


池袋駅も、1分停車であっさりと。

ちょうど2番線に湘南新宿ラインも到着し、穏やかに推移した。


今は湘南新宿ラインとなった山手貨物線〜東北貨物線のルートも、すっかりお馴染みとなった。

最初にここを通ったのは33年前の1991(平成3)年7月2日、日光に向かう集約臨時列車で。

国立市の小学校3校が利用する移動教室への列車で、当時三鷹電車区に配置されていた165系が

9両編成で、最高速度110km/hで駆け抜けていたのだ。

この頃成田エクスプレス、253系は時代の最先端をゆく最新鋭の花形の空港アクセス特急。

新宿での運転停車時、初めてその姿を見た時だけはワクワクに胸が高鳴ったものだ。


時代と台車の歯数比は違えど、両形式に積まれていたモーターは同じMT54。

極めて複雑な思いをしたあの旅を思い返しながら、すっかり慣れた線路を北上していく。