【90's DOOR 012】はよつけ鎌倉!憧れと悲願の“江ノ電”で江ノ島ブギウギ'93&'95 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

江ノ島電鉄。
言わずと知れた関東屈指の観光地である江ノ島・鎌倉を沿線に擁する私鉄路線、通称江ノ電。
藤沢〜鎌倉間全長わずか10kmながら、狭い軒先を抜けたり、併用軌道があったり、海が見えたり…等々と
目まぐるしくロケーションが変わるので、男女問わずファンが多く、いつ行っても飽きることがない。

自分も、本に載っていたのを読んでいたりしたから昔から存在は知っていた。
その時に見た写真は、腰越あたりの住宅街を抜けていくものだっただろうか?

実は、早ければ1991年春には江ノ電に乗れる可能性があった。
それは、うちが通っていた小学校の当時の6年の春の遠足が鎌倉方面だったからだ。
少なくとも、うちの前の年代まではそうだったはずだ。
その話を聞いていたから、鎌倉に行けることが、江ノ電が見れることが、もしかしたら乗れるかも?という
楽しみが、かなり前からずっとあったのだった。
俺らの時も遠足は絶対に鎌倉だ!と信じて疑わない、純粋な小学生だった。

ちなみに、お寺とか神社を見て回ることには一切興味は無かった。
うちのことをよく知る人は分かっていると思いますがね(笑)

《それまでの遠足歴》
1年 立川・昭和記念公園  武蔵野・井の頭公園
2年 武蔵野・野川公園  羽村・羽村動物公園
3年 八王子・高尾山 東京都檜原村
4年 青梅・御岳山 埼玉・武蔵野狭山林間コース(フィールドアスレチック)
5年 神奈川・藤野園芸ランド 五日市(現あきる野)・飯盒炊爨

もう、4年秋の遠足からは都県境を越えていたしね。
JRの切符代をケチるために、恋ヶ窪まで歩かされたという珍行程はあったが(笑)
問題はないものだと、この時は一点の曇りもなく思い込んでいた。

ところが。
いざ6年に進級して、春の遠足の行き先が発表された。

高尾→相模湖

…はい?
なんですかそりゃ?

山登りです。

ただ歩くだけ??

歩くだけ。



なんじゃそりゃーーーーーー!!!( *`ω´)

ただでさえ、この【90's DOOR】シリーズで書いてきた通り母の実家は山梨県上野原市(当時・上野原町)。
前年春だって、当時の神奈川県藤野町だった藤野園芸ランドなる場所。
自分からしたら、普段から行き来している馴染みのある場所に行ってもなんにも面白くなんかない!
※極論から言えば1年春の昭和記念公園もそうだが(父が西立川育ち)その時は純粋だったから…(笑)

しかもしかも、大嫌いな山登りなんて言うもんだから、不機嫌モードは増す一方。
ただでさえ約3ヶ月くらい後に日光への移動教室を控えていて、また尾瀬あたりを歩くというのに!!

冗談じゃねぇ!!(堀内孝雄ばりに)

…こんな精神状態だったから、実際の遠足がどうだったのかはもう全く記憶の片隅にすら残っていない。
(山登りだったからという理由では、高尾山やバス折返場取材で再訪した御岳山も同様)
後々まで残っているのは、結局鎌倉に行けなかった怨み、江ノ電を見れなかった哀しみばかり。

…という江ノ電をやっとこの目で直に見ることができたのは、さらにそこから2年半後。

日付は1993年10月3日、日曜日。天候は雨。
場所は七里ヶ浜〜稲村ヶ崎間、今の新車車両搬入場の所。

確かこの時は家族でドライブに繰り出して、側の駐車場で休憩していた時だったと思う。
折良く当時注目の最新車である2000形が、明治カール広告塗装の1000形1201編成を伴って通過した。
まさかこの時は、いま明治カールが関東で販売終了になるなんて全く想像できなかった。
当時はあって当たり前、食べれて当たり前の存在だったんだがね。

そして、実際に乗ったのはさらにここから約2年後。
1995年7月20日、木曜日。
この日が「海の日」という祝日になったのは翌1996年からなので、通常だとギリギリ学校があったはず。
夏休み前で学校(当時高校1年)が早く終わってから、気が向いて乗りに行ったのだろうか。
但しうちの学校は2期制で、終業式という体裁では無かったと思う。
朝に校長の講話だけあって下校だったはずだが、その時自分は講話中継のセッティング※1のため校長室に居て
校長先生にこんな会話を振られたのをよく覚えている。
※1-うちの高校はマンモス高校だったため、講話はマイクを通じて各教室に中継というスタイルだった

「夏休みはどこかに行くのかい?」

自分はこの時校長先生と初対面※2で、急な問いに緊張でガチガチになりながらもこう答えた。
※2-病気療養のため、自分が入学した時の入学式は欠席していた

「家族で山中湖に行く予定です」←当時、主に夏の長期休暇の時は我が家では恒例だった

すると、校長先生の返しがお見事だった。

「そうか、毒ガスには気をつけなさいよ」

この一言に、校長室内大爆笑、自分も釣られて爆笑。
1995年当時のかの時事ネタを絡めて、独特の緊張した空気をほぐしてくれたことが忘れられない。

兎にも角にも、そんなことがあってから初めて向かった江ノ電。
ただ、なんでこのタイミングで乗りに行こうとしたのかは、今となっては全く思い出せない。
京急とJR横須賀線を乗り継いで鎌倉まで行き、江ノ電ホームで初めて遭遇したのは旧500形502編成だった。
この鎌倉側の552号車は、廃車後に一部が東京都調布市内の中古車販売店に譲渡されている。
(昨年だったか、強盗に襲われて店主が怪我していたがどうなっただろうか…?)
また藤沢側の502号車の前頭部は、極楽寺検車区に保存されているらしい。←まだ見たことない

そして、藤沢方に連結されていたのは300形304編成。
1編成ごとに細かい形態差がある形式だったが、この頃には303〜305編成が残るのみだった。
この304編成は老朽化と塩害が深刻だったらしく、廃車後は前面を残して解体処分となったようだ。
その前面は、やはり極楽寺検車区に保存されているらしい←やっぱりまだ見たことない

稲村ヶ崎にて

この稲村ヶ崎では、2018年現在でも現役で残る305編成と交換していた。
1995年当時は、ビールの広告電車として走っていたらしい。
メモには、車両広告について「ハイネケン」なんて書いてあって、実に酒の銘柄に疎い…

…いや、高校生だから当たり前か。

高校生から酒に詳しかったら、倫理的にどうしようもないよな(笑)
なんたって、母方の祖父から飲酒を勧められても断るほどの真面目高校生だったから(笑)←自分で言うな💢

それにしてもハイネケンなんて、もうかれこれ10年くらい呑んでないかも。
かつてはライブハウスでよく呑んだものだが。
あ、その話はここではどうでもいいか。

それよりも改めて見て驚くのは、夏真っ盛りの日中なのに2両編成の運用があったということだ。
今、こんな運用したら超満員になってしまうのでは…?

峰ヶ原信号所にて

旧500形501編成と交換した写真も。
最初に写真で見たのがこの形式だったからなのか、旧500形は好きな形式だった。
構造上最後まで冷房改造できずに廃車されていったのは惜しかったが。

後ろは300形303編成。
この303号車の前頭部は今は江ノ島駅の待合室に展示保存されており、間近に見て触れることが可能。
それにしても、やはり真面目高校生だったのか?海に出て過ごした記憶もまるで皆無。
海水浴とか、海岸でナンパしようなんてことは誰か※3のようには微塵にも思わなかったらしい(笑)
※3-誰かって?それはここでは言えません(爆)

腰越にて

そんなことよりやっぱり見に行きたかったのは、江ノ島〜腰越間の併用軌道だったらしく。
少し降りて、沿線で撮影しに行っていたらしい。

江ノ島〜腰越間にて

やはり原型の2000形は、名車だったと思います。
バスでいうといすゞキュービックのような、惚れ惚れするような前面一枚窓を持った電車でした。
最近更新を受けてスタイルが崩れたのは、少しばかり寂しく感じますが。

そして、江ノ電に新風を吹き込んだ1000形。
登場からまもなく40年を迎えるが、更新を受けつつも未だに全車現役!
走り装置こそ吊り掛け駆動だが、スマートで軽快感が薄れない秀逸な電車だ。

腰越駅は狭いホームで、この頃にはすでに4両中1両のドアカットを行なっている。

江ノ島駅近くの江ノ電もなかで知られる「扇屋」には、すでに旧600形651号車の前頭部があった。
廃車後平成時代をほぼ此の地で過ごしてきたことになるが、未だにシンボルとして健在!

鵠沼にて

結局この日は、ずいぶん旧500形に遭遇していた。
今にして思えば、ホント撮り残しておくことは大事だ。

藤沢駅の江ノ電ホームのドーム型屋根は、今もさほど変わっていない。
なんかこれを書いていたら、久々にゆっくり江ノ電界隈に行きたくなってしまった。
一人でふらり巡るのも良いが、友達とツアー組むのもまだ良いかな?
此の歳になったから、視点も変わってまた新たな発見がありそうな気がする。