午前3時。
私はマンションの部屋を出ると、ある意志を持って歩き出した。
8月の最終週、空気は生温い。
人目に付かない時間帯を選んだつもりだけど、結構歩いているもんだな。
大通りからは離れた住宅街なのに。
散歩をしている親子連れ。
病気でも抱えているのだろうか?
年配の親御さんと一緒にゆっくり歩いていた。
茶色い犬を連れたおじさん。
老犬だろうか?
これもやけにゆっくり歩いていた。
そして、新聞屋のおばさん。
自転車でもバイクでもなく、徒歩で配達している。
コースが決まっているのだろう、右へ左へ近づいたり遠ざかったりしながらキビキビ歩いていた。
昼間なら車の往来も結構ある道だが、未だ暗い中、ヘッドライトの明かりは無かった。
目的の場所が見えてきた。
普通の戸建て住宅や背の低い建物しか無いこの地区で唯一の9階建て高層マンション。
数ヵ月前に発見したお誂え向きの物件で、入口はオートロックだが、外付け非常階段の建物だ。
当然階段には鉄格子がはまっていて外部から侵入出来ない構造になっているが、上部に30~40センチ位の隙間があり、この2.5メートル程の鉄格子をよじ登れば簡単に侵入できる。
今からこの階段を登って、8階とか9階とか、適当な所から自ら転落して、人生を終わらせよう。
もう疲れた。
もう何も考えたくない。
もう早く楽になりたい。
よくネットで“人身事故”や“転落”のニュースが報じられ、「相談ダイヤル」など各種窓口が案内されているが、その効果はどれ位なのかね?
みんな確実に“無”になりたいのだから、人に悩みを聞いてもらう事に価値など感じないんじゃないのかな?
今回、“人身事故”ではなく“転落”を選択したのは、他人に多大な迷惑をかけたくない!ただそれだけ。
だから“着地点”も植え込みなどではなく、しっかりしたコンクリートで、駐輪場の自転車を壊したりしないようによく吟味し..、
「お早うございます!」
マンションの前に佇んでいた私に、突然声をかけて来た人がいた。
さっきの新聞配達のおばちゃんだ。
小柄なのにやたら声がデカい。
そして特に私に気を留めるでもなく、またスタスタと去って行く。
他人同士でも、配達中の挨拶なんて日常の一部なんだろうけど..。
いや、もしかしたらあの人はこんな光景をよく見かけているのかもしれない。
「今日はもう帰って寝よう。」
少し白み始めた空の下、私は今まで来た道を家へ向かって歩き出した。
